小説「一枚の絵」2話

美しい丘の絵




自分自身が「一枚の絵」となってみよう。

そしてそこでどんな感情が湧き上がってくるのかを試してみよう。


「一枚の絵」となるためには幾つかの「資格」が要求されるが、

ここでは私がその「資格」を満たしているひと風景を例に取り上げてみるとする。

――分かっているとは思うが老婆心からひとつ付け足しておく。

私のこのひと風景に「資格」を得ることができない人も、

全く違う、そして私には「資格」がないだろう別の美しいひと風景を持っているのだ。

この世の中は——不完全なものでも成り立っている。

全てにおいて完全であろうとして幸せを逃すような生き方をして欲しくはないものだ――。


人を楽しませる、あるいはそれぞれの今後に何か役立てるものを伝える

「一枚の絵」となるためのエンターテインメント、自分にしかできない役を演じよう。

もしそれが自分では決して英雄になることができない「一枚の絵」なのならば

一歩退いて、役を演じることができるほかの誰かを先に通し、

自分は鑑賞する側に回るのが最も美しい。下衆な嫉妬などはやめておこう。

自分のまぶしすぎる美点を棚に上げて自らを虚構の闇に追いやってしまわぬように。


この場所が私に「一枚の絵」になることを許されたところ。

他の場面にも「偶然」で創り出す傑作の可能性はもちろんあるが、

この場所ではまず「必然」として私に機会が与えられる。

そこは小高い丘。立てば眼前に私の育った街の風景が一望のもとに広がる。

地平線とまではいかないがかなり先まで(曇り空かスモッグに溶け込んで)見渡すことができる。

懐かしの校舎・川・橋・店・家・公園――


忘れかけた自分史を語らせればやはり長い物語となる。

私の育った街。私を見守り続けてくれていた街。

私はこの街の風景とならば会話もできる。

何故ならばこの場所とは私がそれこそ自分の意志で行動していなかった子供の頃、

天から与えられた翼に揺られて生きていたあの頃からの仲間付き合いだから。

ただ口を開け、瞳を裸にして景色を見つめていたあの頃とは違い、

今は立派な「大人の会話」で二人の仲はつながっている。

そんな由緒あるこの場所で「一枚の絵」を完成することができるとはこの上ない喜びだ。


丘の頂には立ち入り禁止地帯がもったいなくもある(こんな素敵な場所なのに!

――まぁ、そのお陰で私の独占庭園に近くなっているのだが。

私の「一枚の絵」――立ち入り禁止地帯を示すフェンスに腰かけ、

レモンティーの缶を共に一人で遠くを見つめて煙草をくゆらせる

――ただそれだけでいい。それだけで充分なのだ。

黒と白という純粋な色の服に身を包んだ若い男がたった一人フェンスに腰かけ、

広がる景色を物憂いそうに遠くにらめつけて煙草をふかしているのだ。


坂の下にはちょっと眺めが良いことで知られる車道と散歩道が通っている。

絶妙な距離と角度を保ったそこから創り手以外の人は鑑賞することになるのだ。

腰かけている私の全身は全て視界に入る。

どちらからも丘の上にいる私を見上げる角度になる。


そしてこの距離からでは私の顔をはっきりとは見ることができない。

――それでいい、逆にそれが受け手に恐怖と現実感を与えない絶妙なもの。

そして私の体型は外から見ても絶対に醜くないほどよい痩せ型。

太っている人や年配の方ではこの「絵」の意図と合わない。

できれば若い男性、煙草もあった方が良い。

あぁ、これは私だけの美感覚であろうか、

とにかくだいたいの姿で「絵」になっていればいいだけなのだ。

音楽でいえば「ロック」――完璧な「絵」などいらないのだ。


私のすることはただそれだけ。ただこの場所に座り煙草を吸う――ただそれだけ。

しかしこれこそが完成された「一枚の絵」。

実際にその「絵」を見なくては感動は、美は伝わらないであろうか?

元々、「一枚の絵」に大掛かりなものはそれほど必要とはされていないのだ。

ただ、全宇宙で行われているありとあらゆる美の競演のなかに

何かしら個性を持ったものを演じることができればいいのだ。

ただ自分だけの美を、見せればいい。

私に与えられた能力で最大限にできるのは、私にその「資格」があるのはこの「絵」なのだ。


私がそれ以上手を加えなくても他の誰か、何かがさらに色を添えてくれる。

例えば今の時季には私の周りで清涼な白ツツジが咲き誇る。

彼らに囲まれた私の「絵」の美しさはいかんばかりであろうか。

また、この丘からは日の落ちるショー・タイムも特等席で楽しむことができる。

黄昏を見つめながらフェンスに腰かける白面の一青年は

一体何を想っているのか――という味も加わる。

夜には月灯かりに映えたシルエットだけが映し出される。

下から見たらそのシルエットの背景に月が浮かんでいる、と想像してごらんなさい。

一体誰がそれを「一枚の絵」ではないと思うでしょうか?





春の眩しい陽射しに輝いているとき、夏の涼しい夜のシルエット、

秋のほどよく疲れた黄昏、冬の澄みきった空気ではっきり遠くに見える雪化粧の山並み。

四季の美も、気候・自然・時間などの美も私の「絵」に色を加え、

そして読み取り手の心境・性格・そのときの気分などで

各々に全く違う印象を植えつけることになる。

あの鑑賞者はこう感じたのだろう、この読み手はきっとこう思った

――など私も想像を巡らせては全く飽きることがない。

どんな「絵」も各自の色に染められて読み取られるのだ。


私がこの「役」を演じている間には幾人かの素晴らしい人たちに出逢った。

真っ黒な愛犬に合わせた黒づくめの服で見事な「絵」を見せていた飼い主兼芸術家。

このささやかではあるが立派な芸術家には私の美学に通じるものがあった。


散歩道を穏やかな微笑みを浮かべて歩いている老夫婦は

私の「絵」を認めて私に親し気な微笑みを向け、手を振ってきた。

そういった喜ばしい受け手に感謝の意をこめ私が手を振り返したのはいうまでもない。

一瞬「一枚の絵」は崩れたが、もちろん何のためらいもなかった。

同じように私の「絵」に対し素敵な素敵な笑顔をくれた人がいた。


それは車道を通っていた車の運転手で、

私が覚えているイメージの限りではちょっと素敵な美人だった。

この「絵」の役を演じているときに禁じられている

車の中の人間を覗き込むことを私が珍しくしていたとき、

なんとも気まずい具合に思い切りその人と目が合ってしまった。


これで現実を離れた美しさのある「一枚の絵」は崩れた、

と私が少し反省しかけたとき、

なんとその人は私の知っている笑顔全てにおいても絶品と言い切ることのできる

素敵な素敵な笑顔をほんの一瞬だけだが私に投げかけた。

それは醜いものをはね返すようななんとも華のある表情だった。


そしてすぐにその人は前を向いてしまい、車は通り過ぎてしまった。

今でもはっきり覚えている、なんて素敵な笑顔だったのだろう!

その人の美感覚は私の「絵」を受け入れてくれた。

一瞬ではあったが永遠の知己と私たちはなった。

そう、一瞬ではあったがひまわりが太陽に向けて見せるような素敵な明るい笑顔だった。


また、深夜にここでギターを弾いている人もいた。

そのギターの音はどこまでも優しく、そのまま乱れることがなかった。

私は思わずその「一枚の絵」の鑑賞の立場にまわり、

その人の人物像と一体何を想っているのだろう、ということに

想いを巡らせずにはいられなかった。


あとは自然の美しさ。それを借りて「一枚の絵」を創り上げ他の人に見せるはずが、

肝心な私がまず自然の美しさに魅せられ、

役を演じるのも忘れてしまっていたときが沢山ある。

空のあちこちで競演するようにさえずる小鳥たちの歌。

緑の木や草花を揺らす優しい風。穏やかな風に揺り動く緑の草木。

街並みを灰色に煙らせる雨。静かに白く染めてゆく雪。

疲れきった太陽の最後の仕事――黄昏。

夜の灯りの月の幾つもの表情。朝もやの清涼感。筋肉美に似た山並みの線。

草の匂い。雲の形。花の色。――もう全て。


では、自分が「一枚の絵」となるときの心境とはどのようなものか?

何故「一枚の絵」になる必要があるのか、という説明は後ほどすることとして、

自分の芸術を見てもらうことの喜びとはどんなところにあるのか?

まずは一人のちっぽけな、所詮誰かがいなくては生きてゆけない

弱いひとりの人間の基本的な願望である「認められたい」というものがうずく。


最終的に自己満足だけで終えようとする創作も人生も絶対に有り得ないと私は思う。

自分の「生」の確証を何かに永遠に刻みつけようとする行為は

人間としてあまりに当然なものだ。

そういった欲求や必要をおぼえない人は、それこそ仙人になれるに違いない。

そして何よりも気分がいい。

楽しいからこそこの何時間も費やすことを何回と続けることができているのだろう。

純粋に自分が創ったものを他の人間に見てもらうこと、

見る側の反応を想像を加えてこちらからも見ること。


いつも見る一方の立場ではなくこの私も「一枚の絵」の競演に参加しているのだ、という意識。

それはどこか恩返しに似ている。また、人に風流の心を教育しているようでもある。

自己顕示欲というよりも自分が本当にロマンティックなものを愛しているという実感を

その瞬間には照れずに得ることができる。

その他にも細かく言えばフェンスの上から見る

ささやかな人間や自然のドラマにも楽しさが、

ごくまれには素晴らしく美しい傑作も見出すことができるし、

自分の育った街にいつかの記憶への想いをはせることも悪くはない。

何かいつもとは逆にこの街をこの私が見守っているような気持ちになるのも

人に愛を分け与えているようで、自己実現が少し叶ったようで嬉しい。

風を頬に受けながらただぼんやりと夢想するのだって滅多にない快楽であるし。


この機会によくよくこの複雑な欲求の固まりにメスを入れ考えてみれば、

私をこの場所へと自然に足を運ばせる最大のものは

次の言葉で表すことができると思う。

――大切な人にもなかなか伝えることができなく、

ましてや「話し言葉」なんかでは歪められてしまいそうでできないこと

――つまりは、照れずに、何のためらいも不自然もなく

自分の外に伝えることができる理想的な愛の交歓。


そう、私は自分を「一枚の絵」とすることで俗事に必ずつきまとう

(絶対にそうはいくはずはないくせに心底から投げ捨ててしまいたいと叫ぶ)

躊躇・遠慮という、素直な感情にとっては

全くくだらない奥ゆかしさなどというものから

隔離された位置で実に理想的な、裸の、そして情熱的な愛を

自分の(「一枚の絵」の)美しさと交わしているのだ。

現実などでは決して成就することができない愛――

眠りの中に想い描く自分の願望・理想そのものであるゆめのような恋


――あぁ、なんとも恍惚的な、美しい世界だ――。

どんな恋人にだろうと昼間では、この世では伝えることができない愛の言葉だろうと

そこでは何の不自然もなしにささやくことができる。

――しかも、必ず私の愛に応えてくれるのだ!

一人で愛を夢想しているだけではないのだ、

私と同じようにためらいがない愛を全身から放つ

私のような相手が必ずそこにいるのだ!


どんな恋人にも求めることができない非現実的な私の愛の受容を

この「一枚の絵」のなかでは絶対に裏切られもせず求めることができるのだ!!

――これが理想的な愛の交歓でなくてどうしようか。

「一枚の絵」とはあまりに美しいもの――。



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