小説「一枚の絵」3話

美の鑑賞




さて。偉そうなことばかり述べたがここで「一枚の絵」についての

私の最大の悩みを聞いていただこうと思う。


私は妙なところで義理堅い人間だ。

一言でいえば「誠実さ」に対しては人一倍義理堅い人間だ。

何か素敵なことをしてもらったら、その倍くらいの素敵なことで恩返しをしなくては

気が済まなく、そして自分で納得がゆくお返しをするまでは

そのことが決して頭から離れない。

一般的な「相手に悪いから」という理論なんかではなく

「自分が許せないから」という個人的に歪みのある理由でだ。

そしてその分、その気持ちは強い。


「一枚の絵」を見ることの「権利」と「義務」――これだ。

つまり、「一枚の絵」を自分が鑑賞する立場になることには

何ひとつとして必要とされる「資格」などない。

例えば「一枚の絵」を見つけてそこでその「絵」を壊そう、

と思い立った下衆で無粋な輩がいたとしよう。

その美しさを一人占めしたくてその「一枚の絵」を

実際そこで壊したとしても、それはそれで真実だ。


壊される前にその人間に発見された瞬間、

その「一枚の絵」は永遠の命として成立したのだから。

そこで壊されるのも真実。壊されずに今しばらくその形をとどめるのも真実。

一瞬に永遠の命を得る「一枚の絵」にはそんなこと関係ないのだから。

その点私は理想的な鑑賞者だ(と思う)。

私からその「絵」を崩そうなどとは露にも思わず、

その「絵」のためならば私ごときを犠牲とするのも辞さなかった。


少し離れた位置で静かに鑑賞する。

その「絵」の繊細な美のひとつの線をも汚したりはしない。

逆に私がその美しさを増すことが出来る場合には

つい体が動いてしまい手を加えてしまっていたほどだ。

他の方には別の意見があろうが私はこの態度が一番だと思っている。


しかし、「義務」のほうになると――。全く私は駄目だ。何もできていない。

全然足りない。私は身勝手なただの消費者にしか過ぎない――。

確かに先ほどまで説明していた私の「一枚の絵」は

それなりの意味と美しさをもってこの世に存在している。

それは事実、私も拳を握り締めて認める。

だが、思ってもみたまえ――。

この後に長々と説明しようと思うが、この世の中に存在する限りない数の、

果てしないスケールの、言葉を超える美しさを有する「一枚の絵」のことを――。


一枚一枚が独創的で魅力的な美をたたえては私の目に登場してくれる。

私が生まれたときから、もう一体どのくらいの数の、

どのくらいの美しさの「一枚の絵」が私の生きる糧となってきてくれたことか!

――それだけ絶大な数と美しさの「一枚の絵」に育てられてきた私が

今現在できているのはたったひとつきり、たったひとつのあの「一枚の絵」だけ。

全く釣り合いがとれていないではないか!


「一枚の絵」を見る「権利」ばかりを行使して、

「一枚の絵」を他の人に見せる「義務」を全く果たしていないのがこの私。

こうなればもう「義理堅い人間」などと自分のことを誉めてもいられやしない。

私はただの搾取人間。ただのひとりよがりの男――。


――そういう罪悪感が常に私の心につきまとう。

この頃では「一枚の絵」にめぐり逢うのが結構つらい。

見つけた最初の瞬間はいい。

だってただその美しさに感動していればいいのだから。

しかしその「絵」がしばらく成立し続けてしまうと、つらくなる。

心の奥からこの罪悪感が頭を持ち上げてくる。

そしていつの間にか「感動」の心に占める割合が

「罪悪感」の闇一色に塗りつぶされてしまうことになるのだ。


だから私は「一枚の絵」に出逢うたびこの頃では

心に痛みを抱えてくることになってしまっている。

——なのに、私が「権利」に見合うだけの「義務」を果たせるということは、皆無だ。

「義務」すら果たせないくせに私は何をここに説明しようとしているのだろう?

私は完全に自分で「権利」に見合うだけの「義務」を果たしていないことを認めた。


だが、そんな私でも今までの人生で見つけた数々の「一枚の絵」の美しさを

この世に伝えておきたいのだ。

 「義務」を果たしきれていない人間だろうが「読み手」としての

「一枚の絵」に対する想いを吐き出しておこうと思うのだ。

「創り手」としては実力不足の私の罪の償いととらえてくれても構わない。

もうこうなればせめてこのくらいのことをしておかなくては

世の「一枚の絵」から追放されかねない、と私は恐れているのだから。


では、自分自身が「一枚の絵」の鑑賞者となってみよう。

そしてそこでどんな感情が湧き上がってくるのかを試してみよう。

まずは分かりやすいものからいこう。純粋に誰もが思う美しいものだ。

自然の景色はその最たるもの。景観が美しいといわれる高原などはどうか。

基本的にその美を創り出しているものは幾種もの緑色の使い分けと

起伏のメリハリ、そして空との境界線だ。


配色の妙・配置の妙・配線の妙――大切なのはその「間」というか「調和」だろう。

そんないわば単純なことが(あるいはその単純さのゆえに)

限りなく100%に近い人間に「一枚の絵」を無意識に連想させる。

自然の芸術は凄い。

そんなことだけでそれほどまでの美しい「一枚の絵」を完成させるというのは

一体どんな想像力(創造力)なのだろう?


一番数が多いのは自然の「絵」であろう。

非常に分かりやすく、種類も豊富で、数としても多い。

自然それ自身だけではなく他の要素が絡む、という点では

まさに「一枚の絵」の王道、不可欠なものだ。

太陽・月・星・空・雲・風・雨・雪・海・湖・河・砂・土・山・

草・花・木・森・動物・色・光・影・線・形・角度・

味・匂い・音・温度・手触り・時間・空間・スピード・勢い・数

――などなど、そしてその全ての「調和」。

自然の造形美についてはもうこれ以上述べる必要もないだろう。


「一枚の絵」の王道。誰もが「美」を感じるもの。

誰もが愛すもの、私としても個人的に一番好きなもの。

スケールの大きな、全ての「美」の原点ともいえる。

――私は思う。自然の美しさとは、やはりそれだけではなく

他の何らかの要素と結びついてこそ

そこにそれ以上の美しさを創り上げるものでは?と。

自然美は「一枚の絵」に絶対欠かせないものであろう。


それ自体も「主役」になることができるし、

そうして素晴らしい美を生み出すこともできる。

が、その本来の意味は「引き立て役」にこそあるのでは?

純粋な自然美以外の美に慣れたものにとっては

純粋な自然美は非常に新鮮な「一枚の絵」だ。

しかし、人間社会で日常を暮らす我々としてはそうはいかない。

やはり自然美は「引き立て役」としてここはとらえておこう。

分かりやすい「一枚の絵」は数がありすぎてどれをここで出せばいいのか迷う。


まぁ、幾つかの「絵」を紹介しておこう。

天の川の灯りさえはっきり分かるほど夜空に裸のままの星たちが

鮮明に輝きを、美を競演していた人里離れた山頂の深夜、

私は車のボンネットに寝っころがり夜空を見上げていた。

流れ星さえも幾つも見ることができて

私の感動は(贅沢にも)薄まってしまっていたほど。

満月――しかしひとつの満月の絶大な美しさに劣らないほどの

無数の星たちが競うことにより生み出す強烈な美。

満月と無数の星たちの競演を目を細めて見上げていた私の視界に、

一羽の鳥のシルエットが星空を翔んで横切り

――そして満月の灯りに重なったとき、「一枚の絵」が完成した。





私が夜道、家路を急いでいると

ある家の車の上に猫が姿勢も見事に立ちあがっていて、

そして月を――美しい月を見上げていた。そこでも私の足は止まった。

標高2000mの山に登った後に足元に気をつけながら下っていたとき、

遠く下方の静かに美しい森林の一部が雲間から漏れるように流れだした

一条の太陽の光に照らしだされた。

もちろん私は雲と太陽がそれ以上場をずらさないことを願っていた。

何か、また美しいものが空から舞い降りてくるような気がしていたことを今も覚えている。


やや疲れた太陽の時間である黄昏に、世界の音を止めるオレンジ色の鈍い陽光を

全身に浴びて周りに人もいない川辺に腰かけてはるかはるか遠くを見つめている

黒服の学生らしき少年がいた。

空缶を灰皿に右手以外を決して動かさず

静かに煙草をくゆらすその悩み多き「一枚の絵」――。

陽に溶け幾らか輝きを増す豊かな黒髪が風になびく。

この少年の今考えることは――。


このような分かりやすい「一枚の絵」は数え切れないほど挙げることができるが、

そんな分かりやすい「一枚の絵」ばかりを説明するのはこの作品の趣旨からそれる。

それよりも少し個人的な「一枚の絵」のほうがここでは大切なので先を急がせてもらう。


次は「成功したミス・マッチ」とでも呼ぶべき「絵」たちだ。

幾らか可愛い気がある、愛すべき美しさがある。

日頃周囲から冗談の通じないというか、威厳ある人というか、

一枚の壁をへだてているとっつきにくい堅物と思われている男性が、

ある日丸いバンソコウを(可愛くも)頬に貼ってきた。

話すことが特になくて仕方なくそのことを口にした人にその男性が

いつも通りのゴツい口調で答えた次の言葉――「猫に引っかかれた」――

そのとき、その丸いバンソコウと言葉の後に見せた小さな照れの微笑みに

――「一枚の絵」がやはり創り上げられた。


完全な都会のド真ん中。

高層ビル群を背にして(無駄なあがきのような、間に合わせの言い訳のような)

ささやかな自然公園がある。

公園の真ん中を占める人工池を一望するため

小高い丘を上がりきって池を見下ろすと

——また一瞬、時が止まった。

高層ビル群を背景に都市の谷間のわずかな自然を

完全に支配する黒鳥たちの「成功したミス・マッチング」。


池の中心の島の木に黒い鳥たちが幾羽も幾羽も止まっていて

完全にその自然の風景を占拠していたのだ。

言い訳の自然と言い訳の鳥——実りはしない「抵抗」を連想させたが、

それなりの強烈に独創的な美しさがあった。


自分よりも大きい体をした犬を散歩させている痩せた初老の男性がいた。

――というよりもその大きな犬に逆に散歩されている、

という見事な「成功ミス・マッチング」の「一枚の絵」——どうであろう?

そして、その犬が小さく可愛い猫のように寝っころがり

男性のブラシの愛撫にその巨大な体をまかせている。

これもまた何とも微笑ましい「ミス・マッチングの成功作」。

二重の「成功したミス・マッチング」というべき美しい「一枚の絵」――どうであろうか?



戻る←   →進む



トップページ小説トップ一枚の絵トップ








Copyright (C) 1997 - Ken Box. All Rights Reserved.