小説「一枚の絵」4話

美の追求




また、分かりやすい「絵」と「成功したミス・マッチング」が共演した作品も非常に美しいもの。

それを次に挙げる。


木漏れ日も涼し気な山中のトレッキング・ロードを

一人の小さな男の子とその父親らしき男性が少し距離をあけながら歩いていた。

まだ足の長さも父親の半分にも満たない男の子は早足に勇ましく先行している。

父親はどこにでもいるような服装と顔の中年のお父さんで、

散歩よりも遅いペースで気ままな足どりで歩き、そして何かニヤけている。


――急に父親がペースを上げ男の子に迫った!

すると男の子は後も振り返らず耳で察知したのか短い足を駆使してさらに足を早め、

さもそれが自分の当然なペースであるかのように歩き続ける。

――父親は頬と口元を思いきり緩ませた。

声では笑っていないが顔全体で歳に合わない無邪気な微笑みの表情を見せた。


男の子は早足で(耳を立てながら)父親の前方を歩き続ける。

言葉も二人の間にはない。たまに退屈になると父親はペースを上げる。

男の子が疲れてペースを乱れ気味にすれば父親は息を切らしたような呼吸をつくり、

もっとペースを落とす。そして父親から休憩の誘いをかける。

――その繰り返し。

小サイズの登山装備を勇ましくも可愛く着こなした男の子が

一人黙々と歩く姿は純粋に美しい「一枚の絵」。

自分の子供を優しく見守りながら密かに心から微笑むパパは「成功したミス・マッチ」。

その二人を端から見れば――何とも素敵な「一枚の絵」でしょう。


赤ちゃんの瞳も両方だと思う。

思考を無視して「同じ生き物としての本能」だけで何とも分かり合おうと裸の瞳で全てを見る。

その大きな瞳は見るだけで美しい。いつでも「絵」になる。

しかし、赤ちゃんの周囲の社会的なものを考えれば「成功したミス・マッチング」のような

――何とも決め難い。

その理屈でいけば、動物園でちょっとためらいながらもキレイにはしゃぐ年上の女の子

――も両方を兼ね備えた美しい「一枚の絵」だ。


次。さて、いきなりだが私は「一枚の絵」の完成のためならば

少しぐらいの悪や罪は許されるべきだとあえてここに声を大にして主張する。

最低限のモラルさえ維持していれば(時にはモラルさえ全て無視してもOK)「一枚の絵」

――ひいては「美」に関しては誰もが法律となることができる。


そもそも美醜と善悪とはその範疇を全く異にするものだからだ。

その線で私が私のルールに忠実に行動したことも教えてしまおう。

――「失敗した一枚の絵」だけは絶対に許すことができないのだ、私の感性は。

当然それが間違っていたら美しく直す――

これは「一枚の絵」の鑑賞者の「義務」のひとつだと私は思う。


可愛い少女が犬の散歩をしていた。

振り回すのでもなく振り回されるのでもなく、

仲良く楽しそうに春の淡い陽射しを受けて緑の湖畔を歩いていた。

私は――(アブない人間ではないが)その美しさ、

「一枚の絵」を今しばらく見守りたいがため、純粋な「美の追求」のために

その後を充分な距離をあけて尾けていた。

心地よい散歩。春風に吹かれる草花のような涼しさ。

美しい「一枚の絵」。私はその美しさに酔っていた。


――しかし!なんとこともあろうにそこに重大で明らかなミスが生じた!

なんと可愛い女の子がその犬の(あまりキレイではない)フンを拾いだしたのだ!!

――私は思わず走ってその女の子との距離を縮め、こう乱暴に言ってのけた。

「そんなことしちゃ「一枚の絵」にならねーだろ!俺がやる!!」

そう言い放ちながら少女の手にあるビニール袋を奪い取ろうとした、当然な「義務」として。

なのに!なのにそのごく普通なことをした私に向かい犬は(不条理にも)吠えたて、

女の子は(恩も忘れて)奇声をあげ変な人間にでも出くわしたかのように

全て投げ棄てて逃げ去ってしまった。

取り残されたのは犬に吠えたてられる私一人だけ。

全て何故か崩れてしまったのだ。

その時考えても今考えてもこれは絶対におかしい。

絶対に歪んでいた、その女の子と犬は。


もうひとつ、これは完全に私の不徳のいたすところであるがまたおかしいことがあった。

月がその形といいその色といいまさに「オレンジ」と思わせる美しい夜、

私はその「オレンジ」が空に翔び上がってゆく姿を

一人で川辺の公園の芝生の上に寝そべりぼんやりと眺めていた。

――やはり、月とはこの世で最高のロマンティックの象徴――

と私は何時間も何時間もその美しさを愛で、目での愛撫を繰り返していた。

いつまでも、いつまでも――。そして私の心もその「オレンジ」に負けないくらい

ロマンティックとなり、実にその頂点に達したとき、私はふと目が覚めた。


——なんで私はこんなに美しい「一枚の絵」を一人で見ているのだ!!

私の体も凄い勢いで跳ね起きた。

そして人通りのある市街地の方向へ猛然と駆け出した!

頭の中で狂暴な血が駆け回っていた。

私は、最初に出くわした素敵な若い女性に狂おしい勢いで近付いてその腕を引っ張り、

こう乱暴に言ってのけた。

「来い!一人じゃ「絵」にならねぇ!!」

私は周囲の人間に乱暴に突き飛ばされ、

警察への通報をされた時点でハッ、と我に返った。


そして私を取り囲んでいた幾人かを振り切ると

自分の心の中に生まれた自分への恥ずかしさから逃げのびるように

車道の中央を走り出していた。

あぁ、なんと血迷ったことを——。あんな知らない女では意味がないではないか。

さらってくるなら心のつながっている女でなくては駄目ではないか!!

あぁ、私としたことが――。

――この通り、これは私の不徳のいたすところの出来事であった。


――さて。次からいくらか込み入ったものになってくる。

少々分かりずらいかもしれない。

だが、それも間違いなく美しい「一枚の絵」になっているので是非想像してみて欲しい。

「間」というものだ。

ひとつのシーンから次のシーンに変わるときに現れる本当に瞬間の「間」だ。

それ以前に全力を傾けていたひとシーンを終え、

次の新たなシーンに向かう間の本当にわずかな隙間の「一枚の絵」。

ひとつのものごとを破壊に陥れ、そして再生へと導く瞬間と瞬間の谷間、

とでも呼ぶべきまさに一瞬の「一枚の絵」だ。


この「絵」の特徴としては「スピード」がある。

まれに緩やかなものもあるが、大部分では

この「一枚の絵」では「スピード感」を楽しむことができる。

ほんの一瞬の「絵」なのだから、沈黙というか呼吸の隙間というか、

とにかく絶対に見逃したくはない「絵」だ。

全情熱を込めての演奏中に全てを「切る」がごとく一瞬に音を全て止め、

そして次の瞬間に再び今まで通り演奏する、というシーンでのほんの一瞬、

全てが完全に停止する、という「一枚の絵」。

あるいは幾つも幾つも伏線とも呼ぶべき長い長いストーリーを経て

ついに全感情を開放・爆発させるというギターソロへ入った直後の極限の瞬間美。


ダンサーがその全身、指や髪の隅々まで全てを表現のための術として使い、

やはりその一瞬の表現と表現との一瞬の隙間の息をもつかさぬ鋭い瞬間美。

「静」をベースとして、「動」はほんの一瞬でいいのだ

——とまるで人生の教訓にもつながるような技の応酬の「間」。

「間」の美でいけば落語はその王者である。

自分と客との見えない「呼吸」の「間」をつかんで自分の話に引き込む「間」の技術は

深くつっこめばはかりしれないものがある。

このように、「間」の美とは自分と相手を自分の創造した世界に

全く同じくつからせてしまうことにある。

その「間」のタイミングとは言葉ごときでは決して表せず、

その独特の「間」の体得者のみが生み出すことのできる「一枚の絵」である。

「調和」とは似て否なる感性が必要とされると私は思う。


――これも美しい。美しい。

それまでの人生で「人生の目標」として努力し、そしてついにそれを見事に成功に収めて

周りの人間たちに認められたときの「栄光」は「一枚の絵」か?

――これは未だはっきりしていない、よく分からない。

確かに他人が認められている姿は素晴らしい「一枚の絵」になっている。

その人間の栄光の瞬間であり、私にはその人の顔に

「人生の勢い」という美しい光が射し込んでいるのが見える。


そう、見る側からは光のある「一枚の絵」とはしても

――自分がその栄光を受ける立場になるとそんな実感は破片ほどもない。

確かに誰かに自分が情熱を傾けて温めてきたものを

認められるのは嬉しいことだが、だからといって認めてくれる相手が

「一枚の絵」になっていた試しは(凄いモノを抜かせば)全くない。

「一枚の絵」の美しさ、というよりもただ純粋に嬉しい。

「絵」だの美だのを忘れていつも素直に喜んでいる自分がいた。

結論としては、鑑賞する側としては光のある「一枚の絵」となるが

自分が認められる番になっても嬉しさのほうが純粋に先行して

「一枚の絵」のことなど考えられていない。


大恩ある「一枚の絵」のことも忘れて個人的な嬉しさに没頭しているそんな姿では

他の人に何かを分け与える「一枚の絵」となる可能性もないのだ。

他人のは美しいがこの私のはその時に「一枚の絵」のことなどすでに頭になく、

ただ自分で嬉しさにひたりきっているだけ。

そんな私が他の人のように「一枚の絵」になることはない

――とまぁ、そういうわけだ。少し残念でもある。


美しいものはこの世界に一体幾つくらいあるというのだろう?

一体幾つものドラマがこの瞬間に生まれているのだろう?

――そんなありとあらゆる趣のある美しさのなかで

私が個人的に非常に羨望のまなざしで見つめてしまうものがひとつある。

これは他のどの美しいものと比べても「うらやましさ」の度が高い。

真面目な話、私の今までとこれからの全てを捨ててまでも

それを手に入れたいと思うものなのだ。





それは、鳥が空を自由自在に翔ぶ姿。すなわち、私は空が翔びたい――。

もしも夕闇の鳥のシルエットのように雄大に天空を翔び回ることができるのなら、

私は人間を辞めてもいい。「一枚の絵」へのこだわりさえ捨ててしまってもいい。

事前に知らされずに残り三日の命となろうとも神を怨んだりはしない。

人間とはいいものだ。

他のどの生き物と比べても損をしたという気はしないぐらい恵まれた生き物だと思う、

鳥のごとき翼がないこと以外は。


何故神は「言葉」と「翼」を同居させなかったのだ?!

「翼」さえ加えてもらえるのなら手先の器用さも肉体の美しさも

知恵の豊かさもその代償としてお返しするのに!

人間にはここまでの便利な能力を幾つも与えておきながら空を翔ぶ、

というひとつの肝心な能力を与えておかなかったのだ!!

鳥たちが空を翔ぶ姿は美しい。私は心からその美を妬む。

本気で言わせてもらう、空を自由に翔べる能力をこの私に与えてくださるのなら、

私は「一枚の絵」――ひいてはありとあらゆる美に対しての「権利」を全て放棄する、と。


私はある女性(彼女の美しい大きな瞳ならば本当に空が翔べるような気がしていた)に

このことを全部ではないがぶつけてみたことがある。

その時彼女は言った――それは、「ないものねだり」だよ——と。

私は深刻な顔をして苦悩していた。

そうか――だが、――やはり空が翔びたい。

「ないものねだり」とは事実、的を射た指摘なのかもしれない。

冷たく、翼なんて所詮無理、とどこかで見下しているような、

あるいは本当にそうなってしまったらそれはそれで困ってしまう、

という矛盾の嵐の夢想のような――「もしも」の話だ。


だが、私は夢想する。私のこの身が鳥となり自由に大空を翔び回れるのならば

もう「権利」に対する「義務」が足りない、などとゴチャゴチャ悩むこともなく、

純粋な「一枚の絵」の創り手として私の生涯のこだわりである「美の追求」に

もっともっと到達することができるのだろう、と。

自分の「醜さ」を今以上に気にかけることもなく純粋に

今以上の「美」のなかでその生涯をうずめることができるのだろう、と。

私はもっともっと美しいものを追い求めてゆきたい。

空を翼で翔ぶ、ということには「一枚の絵」以上の美しさがあるように思えて仕方がない。

やはり、空が翔びたい――「美の追求」のために。


さて、「一枚の絵」とはかけ離れてしまうが現実離れした美しいものが

私のみならず我々には与えられているのを我々は意識しているのか?

これの世界では自分と自分の隣にいる人が世界の主人公で、

その他全てのものごとは二人だけのために捧げられた脇役であり道具、というもの。

そう、それは「恋愛」。


歪んだ感情なんかは問題ではない。

清らかな、広い意味での愛のことをここでは話題にしている。

何の遠慮も躊躇もなしに抱き合え、愛し合うことができる相手。

いつの間にか心をすっかり盗まれ、ぽっかりと穴があいた時間には

気がつくとそのひとのことを考えてしまっている。

やっと抱き合えるときにはその恨みを果たすかのように思いきり抱き締めるが、

そのうちまた離れてしまえばなんとその抱き締めたぶんだけ

心をまた(より一層)盗まれてしまう、という愛しいひと。

――You Just Steal My Heart――


この世界では、自分たちからでは「一枚の絵」ではない。ただ純粋に美しい世界だ。

周りのものごとが「一枚の絵」を二人に見せてくれたとしても

それは二人の愛を祝福してくれているだけなのであってそれ以上の目的の「絵」ではない。

あくまで世界の主人公は自分たち二人だ。

そこでは全ての美が二人だけのためのもの。

自分たち二人も周囲の全ても「一枚の絵」になってるのではない。

ただ自分の隣にいる人が全てを美しく見せてくれているのだ。


そのゆめのような時間の二人が周りから見れば「一枚の絵」に見えるのかどうかなどは

小さな小さな、二人の美しい時間に比べればあまりに小さい問題なのであって

全く気になどかけることはない。

普段は気にも留めず素通りしてしまう場所にそのひとと歩くだけで全ては輝きだす。

二人で歩くだけで世界は違ったものになる。

これは、「一枚の絵」よりも素晴らしいことなのでは?!

「美」の面だけでいったら間違いなく恋愛こそがNO・1だ。

「一枚の絵」であるかどうかを完全に外れたところで強烈に美しい。

自分たちがその美しさの主役。二人で歩くときに「一枚の絵」を見つけた場合には

恋愛中の私から「読み手」の私に一時的に戻っていた。

いつもの理想的な鑑賞者に戻りながらもその「絵」は

二人を祝福してくれているためだけの美しさ、と感じていた。

恋愛の延長線上に見た「一枚の絵」はその美しさをも増していた。

しかし、あくまで自分たち二人が主役である。


「一枚の絵」であるかは別として、恋愛こそが最も美しいもの。

その美しさの度合いではさすがの「一枚の絵」も鈍い輝きでしかない。

恋愛は美しい。その美しさは他のものごと全てを超越している。

何よりも、その美しい世界の主役が自分たち二人である、

というところにその最高の美しさがひそむ。

恋の力は魔力。自分で決めつけた自分の限界を打ち破る。

これ以上に美しいものなど――もしあるのなら是非お目にかかりたいものだ。

恋愛とは、恋愛とは美しいもの――。



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