小説「一枚の絵」5話

ありとあらゆる美




次もまた特別な美しさのあるものだ。

最も犯し難く、最も頭の下がる思いのする「一枚の絵」――それはファミリーの「絵」だ。

春の陽に汗をきらめかせながら芝生の上で

子供たちと親たちが遊んでいる姿は「一枚の絵」になっている。

特に足を止める時間が長い。


私はどちらかというと普通なものや当たり前なものを小馬鹿にしてきた観がある。

異端なもの・背徳のものを上へ上へと祭り上げていた観が(今も)ある。

だが、私はこの「一枚の絵」に足を止められてからは

そんな若すぎる思い込みを排除する方向にしている。


ごく普通の格好をしたどこにでもいるようなお父さん・お母さんがたが

元気のいい子供たちとバトミントンやキャッチボールに興じている姿。

大人同士でやっていても何の特別な楽しみもないだろうが

自分の子供とすることで特別な喜びが生まれるのだろう、

この社会のなかの日常生活での厳しい表情からは

想像もつかないぐらいにキレイな笑顔だ。

私はこの「絵」をあの山道の親子のように単なる「成功したミス・マッチ」だと思っていた。

何故特別なほど長く私の足が止まるのかはさして気になっていなかった。


だが、そんなファミリーの「一枚の絵」を幾つか見るうちに

だんだんその理由が分かってきたのだ。

それは「当たり前の幸せ」という美しさに違いない。

どう見ても普通、とりたてて何も特別なものはない。

——しかし、これこそがかけがえのないささやかな幸せであり、

私の心に知らぬうちに感動を注ぎ込んでいたものなのだ。

何よりも頭から離れない幸せだ。


一人のパパとママとなり我が子と遊ぶ普通の

(若く美しかった体もそろそろ中年の域に達し、

あまり体自体に美しさはなくなってきた現在の)

体のシルエットが子供の高い声と混ざり、なんと美しく、ほほえましく見えたことか。

そう、パパやママは子供とならどんなことをしていても「絵」になる。

一体どんな気持ちでパパやママははしゃいでいるのだろう?

我が子への愛情か?それとも完全な無邪気なのだろうか?


一人でこの「一枚の絵」を見ていた一人身の私にはあまりに美しい「絵」であった。

うらやましい。決して壊すことができない「一枚の絵」だ。

当たり前なことを馬鹿にするんじゃない、その当たり前なことに到達するのに

どれだけの年月と努力が積み重なってきたのか――と私はただ頭の下がる思いだった。

ただ一人の若輩者にしかすぎない私には所詮手の届かぬ高嶺の花であった。

社会的な無力さにため息をついて、「いつかは――」と一声残して私はその犯し難く、

頭も下がる思いのする「一枚の絵」を後にしていた。


あるとき、そういったファミリーの「一枚の絵」にまたも若さを笑われて

肩を落として歩き去っていたとき、私と良く似た思いを抱いているだろう人間に出逢った。

その初老の男性はファミリーの遊ぶ芝生からだいぶ離れたところに陣取り、

持ち込んだ椅子に腰掛けてはキャンバスに絵筆を走らせていた。

それほど近寄りはしなかったので細かくは見なかったが

その油絵には緑の芝生の上で遊ぶ小さい人影と大きな人影があった。

――私はすぐに直感した。

この老画家にも妻子、そして孫がいるのかは分からない。

だが、彼は筆を休める度に目を芝生の上の「一枚の絵」に遠く走らせ、

目を優しく細めていた。

さぞかし穏やかな状態に心をもってきていたのだろう、

私にはこの老画家にも近付くことができなかった。

何故なら彼もまた美しい「一枚の絵」になっていたから。


きっとこの老画家も私と良く似たかけがえのない美しさを

この(平凡な)ファミリーたちが遊ぶ姿に見出していたのだろう。

(私の言葉で言えば)その「一枚の絵」を

どうしてもこの世に残しておきたくて筆をとったのに違いない。

としたら彼は私の仲間だ。共感し合える美感覚の持ち主に違いない。

ならば話しかけてもいいような、悪いような――。

ただ、老画家もまた「一枚の絵」になっていたのだ。


私にはそのことを彼に告げるような広い意味での勇気もなく、

また自分自身へのコンプレックスを深くして歩き去った。

その二つの「一枚の絵」を壊すことなどはもちろん、

何か指一本でも触れてはいけないのだ、という命令が自分自身から発令されていた。

――老画家のことはともかく、ファミリーの「一枚の絵」には私との間に見えないが

絶対的な線が引かれている。

まだまだ私なんかではその足元にも及ばない、当たり前なことこそが得難い美、

決して馬鹿にはできないのだ――と教えてくれた美しい美しい「一枚の絵」だ。


ほんのわずかな「一枚の絵」を長々と説明してきたが、

このように目に入るものごと全てに自分から心を開き、プラスにとらえ、

ロマンティックに読み取れば全てが美しい「一枚の絵」だ。

奇妙な色の使い分けをしたマンドリルだってそれを何も冗談で、

人を笑わせようとしてやっているのではない。

一見我々には分からなくとも何かは絶対に

彼ら独自の美を見せようとしてのことであるのだ。

この世の中全てが「一枚の絵」メーカーだ。


例えば、ありふれたようにいるハトたちまでが不思議な喉声を出し、

鮮やかな緑銀を使用し、様々な模様を編み出す。

愛敬のある歩き方と首の動かし方。そして荘厳な空の翔び方。

フザけたところと美しいところ――二面性でその美を強調している。

数多く、どこにでもいるようで、見下せるようでも

空を翔べない我々人間では届かないところがあるのだ。

やはり、全ての存在が独自の美を売り物に、誇りにしている。

人を楽しませるためのエンターテインメント。自分にしかできない役を演じよう。

意図的に見せ場を創ろう。自然体のままで見せ場になっているのが理想だけども、

芸術として創るのは悪くない。


その自分の言葉を確かめるため私は(個人的にあまり好きではない)

忙しい都会でも美しいものを粗探ししてみた。

ほとんど満員の電車の中に入ってゆくのは残飯をあさる野良犬のようで嫌だ。

そんな人込みの忙しさが私は嫌で嫌で都会を離れていつもは暮らしている。

ホームで電車を待つ人たちの頭のラインをぼんやりを眺める。

少し出っ張ったの、へっこんだの――。

すぐ目がゆく美しいものは女性の見事な体や髪の美しさ、

加えて男女かまわず歩き方の美しさ。

あまり周囲と溶け込んでいない(美しい個性を持った)

人間を見つけているのも悪くない。

透明な存在感をもち、オーラを発している壮年男性、

あるいは他の人たちとは全く違う世界に住んでいるかのように

妙に平和な制服の女の子たち。

殺気とはまた違う情熱に瞳をギラつかせた青年なんかも私は見逃さなかった。

月や星の自然の夜景ではなくイルミネーションと設計で調和され

創り上げられた人工的な夜景にも心を奪われたことももちろんある。

どうしても自然のほうが数としては美が多いので

私はこの時ばかりは最大の敬意を人間に捧げた。

深いこじつけのようになるが、他人だらけのなかで暮らすことにより

自分の周囲の人間に特に優しくなることができる、というのはどうであろうか?

――どんな、どんな場所に行ってもこのように

美しい人・美しいものは必ず存在するのだ。

あぁ、なんともこの世界は広い――。


美しさの種類でも特に私が愛しているのは「清潔な美しさ」というものだ。

これは実に素晴らしい。心の中身の美しさや純粋さというものが

その外見に自然とにじみ出てきたようなもの。

清潔な美。清潔な美。私はそれをある人の足に見た。

ある人の髪の見た。ある人の大きな瞳に見た。

「品のあるSEXY」にそれは近い。

触れることは(私自身の戒律によって)決してできない

その清潔な美をもつ全てを私は生来愛し続けた。

歪みきったところに生み出される美や緊張の緩んだところにある美や

完璧すぎる美など色々と美しさに種類はあるが、

私は最終的に求めるのは清潔な美だった。


ファミリーの「一枚の絵」などを見れば人間の原点は、

本性は清潔な美にあることなど明白ではないか!

清潔な美を感じさせない女性など恋愛の対象外としてしか見られなかったし、

友達にも心の清潔な美を求めた。

清潔な美とはすなわち「誠実さ」のことであり、また、「知的さ」のことであった。

私にとって美とは善悪及び方向性など全て関係なく、

ただ美しければそれでいいものである。

色々と歪んだ美しさにも手を出した。

しかし、それはそれだけでは何の満足もなく、

しまいには飽きてしまう一時的なものだと気付いていた。

やはり基本は清潔な美しさだ。美しいもの。清潔な美。美。

――私は狂いそうになる。最大の快感は美。――快楽とは「美の追求」。


これも時の流れの恐ろしさのひとつだが、「若さ」は美しい。

――私はまだいい。しかし、来るべき将来が怖い、怖すぎる。

我が身が醜く朽ち果ててゆくのに私は耐えることができるのだろうか?

「老醜」という悲劇。——老いたら老いたらならではの「一枚の絵」になろう。

あるいは品良く見る立場になろう。

怖いが、全ては時のなすがままに。自分のペースに。

「現実を超越した美しさ」は派手で、魅力的で、

うらやましくて、何がなんでも手に入れたい美しさだ。

だが、ファミリーの「一枚の絵」に代表される「普段着の美しさ」のことを考えれば――。

一時的なものとして、瞬間としては最高の価値がある。

要はやはり自分にしかできない「役」を演じる、ということ。

美の独裁者となり、思い切って言ってしまえば

それは私がこの世の全ての存在(私を含む)に課した「義務」だ。


(私にとって全ては現実なんかでは意味を持たないただの「方法」でしかないのです。

全ては「一枚の絵」のため、「美の追求」のため、我が芸術の完成のためなのです。

だから現実で何をしても、何をされても私には何でもないのです。

――Nothing Reality To Me――

全ては我が「命」のため――)





私の「一枚の絵」・「分かりやすい一枚の絵」・「成功したミス・マッチ」・

二つの「共演作」・「間」・「栄光」・「恋愛」・「ファミリー」・「都会での美」・そして「清潔な美」。

――もっともっと美しいものはこの世にあるのだろうが、

人生経験の乏しい私には今のところこれだけしか思いつかない。

「一枚の絵」ひいては「美の追求」は日常のなかでは私の唯一のストレス解消法であった。

穏やかな、静かなひととき。

――ここでは「一枚の絵」の美しさを紹介しようと思い、つい饒舌になっている。

だが、「一枚の絵~美の追求」の究極とは、「言葉なんかはイラナイ」。

――私の感性を通したもののことだけしか私には伝えることができない。

私とはこの世界に存在する幾多のもののなかの「人間」というだけであり、

またその「人間」も無数に近くいるなかでの小さな小さな一人。

私にできない「一枚の絵」が氷山の本体のごとく未知数であるように、

私の知らない美しさが貴方には、貴方がたには身近なものとしてあるのだ。

うらやましい。できることならその一つ一つを全部、

一つ残さずこの目で見てみたい。できることなら。


――さぁ、これでいつでもこの私が死んでもいいだけの、

このささやかな「私」という存在の生まれてきた意味を刻み付けるに充分な

「ありとあらゆる美」を紹介しきれただろうか?

私が一日、また一日生きる分だけ、知っている「一枚の絵」は確実に多くなる。

そして私は美しいものだらけにこの身を囲まれて明日をまた迎える。

一日・一週間・一ヶ月・一季節・一年・十年・百年・一生――。

そう、「一枚の絵」を書ききれるということは永遠にありえやしない。

我々の闘いはまだまだ続くのだ。

「権利」と「義務」のことに悩み続けていた頃の私ならば

美しいものが増え続ける人生でその倍くらいの悩みを抱え、

自由に空を翔び回ることなど一生できなかったであろう。

――今の私の心は空を翔ぶ鳥のように自由だ。

ある出来事が私のその悩みを一瞬にして消し去った。

あれほどにまで重くのしかかっていたプレッシャーもある一言で自由な翼へと姿を変えた。

最後にその出来事のことを述べてこの私的な告白に幕を下ろすことにしよう。


ひとつ。(ひとつだけにはならないが)

その前にここに私の体験からの(私からではない)アドバイスをはさませてもらう。

人が終わりに望んで残す言葉は本物だという。

良かったらその破片でも取り入れてくれたら、ありがたい。

――「一枚の絵」とはだいたいでいいのだ。

細かくなど、完璧な「一枚の絵」などいりはしないのだ。

極端に言えば、キレイな風景にシルエットが舞っていれさえすれば、

それで「一枚の絵」なのだ。

以前の私のようにいたずらに完璧を求める必要などはない。

自分の「一枚の絵」とは自分では自覚できないこと。

貴方がいつも通りそこにいれば、「一枚の絵」は完成するものなのだ。


大切なのは自分にしかできない「役」を演じること。

誰もが自分独自のショーを世界に見せているのだ。

ありとあらゆる美しいものはそうして出来上がる。

美を追求する心さえあれば、そして実際に自分の「一枚の絵」を

創ることに努力を惜しまなければ、より一層目の前に美しいものは姿を見せ、

いつかはその積み重ねで空をも翔べる――。


つまらないコンプレックスなどを抱かないように。だいたいでいいのだ。

要は「絵」になっているかどうかだ。美しいもの。

この世は美の競演で形成されている。ありとあらゆるショー。

自分にだけ与えられた「役」。意図的に「見せ場」を創るのだ――。

「一枚の絵」~「美の追求」——全てはそれから成り立っている。

自分の生きる糧となってき続けてくれたありとあらゆる美しいものに

今度は我々が美しいものを見せる番だ。

美しさを忘れないように、そしてもう一人たりとも私のあの悩みにつぶされないように。

私はここに一度この物語の終わりを告げ、

そしてここからを「読み手」の心に任せることにする。

「一枚の絵」とは美しいもの――。



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