小説「一枚の絵」6話

美しい恋人の絵




心のたぎりに見合うだけほどよく暑い夏のある一日、

私は私の美しい恋人と海へ行った。


せっかくの美人を隣に乗せてのドライブなのに私としたことが幾度も道に迷い、

結局は着いたのがもう日中を過ぎた頃になってしまった。

防風林を越え初めて海が見えたときも、

やはり私はそれ以外のことにばかり気を取られていたふがいないドライバーだった。

そんな私を彼女はせかすように車を降りるや否や一人で砂浜まではしゃいで駆けていった。


私も愛犬のトラを連れてすぐに駆け下りた。

ロープを放すとトラはすでに波打ち際まで行っていた

大好きな第二の飼い主のもとへ飛んでいった。

それから二時間ばかり二人と一匹は人気のないその砂浜ではしゃぎまわった。

波との駆け引きに勝負をかけ、取り残されたカニと追いかけっこをし、

クラゲの一種の溺死体らしき謎の物体を彼女が踏んづけたのを大笑いし、

海に突っ込んでいったトラが全身を震わせ水を切るのを二人で待ち構え、

落下傘を打ち上げては二人と一匹で全力ダッシュし、

トラをほっておいては二人で腕を組みキレイな貝殻を求め長々とのんびり波打ち際を歩いた。


そんな何よりも有意義な時間を、楽しいデートの時間を私たちは私たちだけで夢中になり

(私は「一枚の絵」のことも忘れ)全ては私たち二人だけのための美しい世界となっていた。

そのうちに波に冷やかされたのか、私が波を甘く見すぎたのか

思いっきり私だけ海に波を足に引っかけられてしまい、一人着替えのため車に戻った。

乾いた服に直した私が車から出て砂浜のほうに一歩踏み出し、

顔を水平線のほうへ向けると――足が止まった。


そう、私は「一枚の絵」に出逢ったのだ。

あまりに、あまりに美しい「絵」だった、特に私には。

一瞬世界が止まってしまった後、か弱い力で足はいくらか進み出したが

――やはり止まってしまった。近付けなかった。

あまりの美しさに私は決して近付くことができなかった、許されなかった。

「一枚の絵」を見つけた瞬間からそれまでの普通の楽しいデートが

私にとって完全に別物となった。


私はいくらか離れた乾燥している砂浜に腰を下ろし、その「一枚の絵」を眺めた。

――いつの間にか黄昏をむかえていた。

一日に疲れた太陽が最後の力を振り絞ってどこか鈍い、

しかし実に神々しい時を創りだしていた。

水平線の彼方に太陽は沈んでいこうとする。真っ赤な落陽。

橙色の陽射しが穏やかな風と波の音楽を加えて

時の消えた幻想のような空間を創り上げている。

海面は鈍く、強烈な最後の陽射しを受け、

白く、いくらか蛍光の緑色も混じっているがやはり白く輝く。

その眩しくそよぐ海面を背に――まだ元気なこの素敵な女性が犬とじゃれあっている。


一人の女性と一匹の犬は逆光に照らされ黒いシルエットとなっていた。

背の高いそのシルエットは「可愛さ」よりも「美しさ」という言葉を私に連想させ、

その長く歪みのない髪は潮風に揺らされ何よりも涼し気な「風」を生み出していた。

犬にまとわりつかれ無邪気に走り回るしなやかな体の動きは

私の目を一点の曇りもない裸の状態にした。

太陽・空・海・風、そして「人」も見事に調和された素晴らしい「一枚の絵」が

いつの間にか創り上げられ、その一瞬に私の目に飛び込んできたのだ。


私には目も眩むほどの光景だった。

太陽の強烈な光にではなく、その「一枚の絵」にだ。

美しかった。あまりに美しかった。

私には、私には特に――何故ならそこで最も重要な「役目」を果たしているシルエットは

他の誰でもなく私だけの恋人なのだから。

あぁ、今私の目に注ぎ込んでくる大量の太陽の照り返しを彼女のシルエットが遮った。

あぁ――そのシルエットの後ろから眩いばかりの光が漏れる、光が漏れる。

美しい。言葉を超えて――美しい。

なんと私の好みらしい「絵」なのだろう。足も止まった。

息も止まった。砂浜に腰を下ろして私は全身で見とれてしまっていた。







「一枚の絵」を見つけた後の私のいつもの反応

――穏やかな瞳と顔の表情――やはりこれも大好きだ。

この自分の一番身近な人がこれほどまでに美しい

「一枚の絵」を創りあげてくれたことが心から嬉しかった。

改めてこの素敵な女性に感謝を捧げた。

――あのシルエットがもし全くの他人だとしても、

「絵」としての美しさには何らマイナスを生じさせるものではないのかもしれない。

何せこの「一枚の絵」に対してはそのシルエットの恋人として、

私はどうしても限りなく第二者に近い位置の第三者となってしまう。

「一枚の絵」は本来完全な第三者として鑑賞しなくてはならないものであるから、

それを意識してこうして離れてみてもやはり「感情」の割合が倍増している。

恋をしている人間としてはその分嬉しいのだけども。


――長いようだがこの間、「絵」に気付いてからほんの数秒しか経っていない。

まずは彼女が少しでも長くこっちを振り返らないことを願っていた。

だってもう少し見ていたいから。

もう少しこの「一枚の絵」をこの世に成立させていたいから。

だから、もう少し――もう少しだけそのままでいて欲しい――。

その願いが届いたのか、私には、「一枚の絵」にはもう少しの時間が許された。

目を細める私――帰り際のキスのときに匂いと味が消えているのなら、

無性に煙草が吸いたかった。


――だいぶ時間が許された。

いくらか落ち着いてその「絵」を見つめられる余裕が出てきた。

そしてその頃から、いつもの私特有の考えが私の脳裏を支配し始めた。

あぁ。こうして私の最愛の人、私のペットまでが私に「一枚の絵」を見せてくれている。

然るに、然るにこの私は•••••。私にいったい何ができる?

私はいつも大勢の人たちから一方的に

多くの多くの「一枚の絵」を見せてもらっているだけ。

私の創り出すささやかな「一枚の絵」なんかでは絶対に釣り合いが取れていない!

何故みんなそうも私に「誠実さ」を分け与えてくれる?

私に返せることはもらう分のほんの破片程度でしかないのに!

何故?私はそんなに価値のある人間か?

倍にして返したいとは心から思うが私には何もできないのだ、何も、何もできないのだ•••••。


「誠実さ」に関しては人の何倍も義理堅い私はまたいつもの混乱に陥っていた。

それは自己嫌悪。自分の無力さを憎むことであった。

何か、何か私もしなければ。私にできることを最大限に活かせば

ささやかなものであろうともきっと何かが、何かができるはず――。

これだけ他の人たちから「ヒント」を与えてもらっているくせに

本当に何もできないのなら、私は「死」に値するのだ。

私はやる、必ずしや彼ら彼女らのしてきてくれたことに見合うだけの何か、

何かを必ずしややってみせるのだ。

今度は逆に私が彼ら彼女らの今後に何か意味を残すものをおぼえさせるのだ!

それが私の生きる理由、情熱を傾ける対象なのだ!

やってみせる、私は必ず•••••。

穏やかさをたたえた瞳から自責の色、

そして最後には強い意志の鋭さを秘めた瞳に変わっていた。


見とれていた「一枚の絵」は今や自分を戒める誓いの「一枚の絵」に変わっていた。

そしてまずは今この瞬間何をすべきか考え始めたとき、

美しい黒のシルエットは振り向いた。

人と犬の影は私の座るほうへ走り寄ってきた。

私がとった行動は、まずとびきりの笑顔を贈り、

そして後はいつも通りの恋人に戻ることだった。

彼女と犬にとって何よりも楽しい(あるいは「絵」になっている?!)

この時間を私が崩すことは絶対に許されない。

さぁ、私も混じって楽しいときを一緒に過ごさねばならぬ、

私だけの迷いなどこの瞬間には全て捨てて。


「何一人で見てるの――!」と微笑みでからかい、

「疲れた」と言って彼女は私の左隣に座ってきた。

私が陽気に話しかけると急に彼女は無口になり、

一言「キレイな黄昏――」と小さくつぶやいた。

私も自然と無口になり、二人の間に静寂が訪れた。

幾分か肩を寄せ合って――。



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