小説「一枚の絵」7話

美しい一枚の絵




――そんな他の人間の侵入が許されない空間に、なんと外部から

一人の人間の足音が進入してくるのを私の耳は半信半疑ながらも聞きつけた。


「大変失礼ですが」

振り返り、その声の主の顔を見たとき私は不思議に

「高潔さ」なんていう雰囲気を感じ取っていた。

「無粋なことをして万死に値しますが」

なんとその声の主は以前に「一枚の絵」を描いている、

という「一枚の絵」を創り出していると私が読み取ったいつかの老画家だった。

なので私が「高潔さ」なんてものを感じたのもあながち的を外したことではなかった。

「何でしょう?」

そう私はできる限りの優しい声色と瞳でその老画家の呼びかけに応じた。

「どうしても、一言貴方がたに伝えたくて」

そう老画家は真剣な口調で話し、ここで今一度胸を張り直した。

「はい」

そう小さく私も真剣に言葉を返した。

雰囲気についていけなかった彼女はきょとん、として私の顔を覗きこんでいる。

しつけの良い私の愛犬は黙って舌を出して砂の上に座っている。


「私は絵を描いている人間です。

人生最大の趣味として、私の人生の課題として

もう何十年も、子供の頃から描き続けています」

――何か、その言葉が私自身のことを指しているように私は感じていた。

「何者かが手を加えなくても自然と美しく成立している「絵」というものを

私は私の感性で読み取り、それに私の思想で色をつけ、

そして私の作品として描き上げています」

「こんなことを急に言われても誰も分かりはしないとは思いますが、

話の順序として聞いていただきたいのです」


――私は「なんとなくですが分かりますよ」の一言が

喉まで出かかっていたがどうしてかそれを言わないほうがいい、と考えていた。

「幾つか私自身でも納得のゆく傑作というものも

この数十年間で描き上げることができました。

世間にも認められた作品も幾つかはあります。

ですが、この歳になってもまだまだ欲というものがありましてね、

いつまでも描くのが止められないのですよ。

――まぁ、話すと長くなりますので省略させていただきますが、

とにかく私は先日までこの場所で作品を描いていました」

そう言って老画家は持っていた作品を布から解き、私たちに見せた。

「絵はお好きですか?」

「はい、乏しい感性ですが理解しようとする心はあります」

そう私が答えると老画家は安心したような顔でさらに言葉を重ねた。

「では、どうですか?」

絵は黄昏の、ちょうど今ごろのこの砂浜を描いたものだった。

はっきりいって私は感激だった。

なにしろ私がさっきまで見ていた「一枚の絵」をそのまま描いたようなものだったからだ。

――だが、私は思った。私の見ていた「一枚の絵」とは根本が違う。

この絵には私のあの「絵」の命ともゆうべき一人(と一匹の)のシルエットが見事に欠けていた。

それを抜かせば私の見ていたものに近かった。

いや、シルエットがなくてもこの作品には素晴らしい美しさがあった。

「清潔な美」——少なくともそれがあった。

それだけで私はすっかりこの絵に心酔していた。


絵を見せられたとき、私と彼女の口から漏れたのは感嘆の音だった。

私が個人的なことをゴチャゴチャ考える以前にまずはその明白な美しさを認めていた。

「キレイ」

と彼女は言った。

「素敵ですね」

と私も言った。

「見事だワン」

と犬も言った。

「そうですか――」

老画家は急に声のトーンを落とし、ややうつむいた。

「しかし、この作品には「命」がなかった!」

また急に声に感情が加わった。

そしてポケットナイフを取り出すと、キャンバスにそれを切り込んだのだ!

「あっ!」

私たちの口からまた声にならない音が漏れた。

「何を、何をするのです?!」

私はつい逆上してそう老画家を責めた。

「これは今となってはただの駄作に過ぎないのです」

「駄作?――いや、明らかにしっかりとした美しさがあるではないですか!」

「そうですよ!」

彼女もそう同調した。

「そうだワン!」

――と聞こえた気がしたが、犬がしゃべるはずがない。

「聞いて下さい」

老画家はそう鋭さのある声で切り出してきた。

「この風景の「命」――それを私は貴方がたから教わったのです――」







私もいつの間にかこの老画家の世界に入り込んでいた。

大体が太陽と時間の創り上げるこの鈍く、

疲れ切った空気はロマンティックを超えて「ゆめまぼろし」の世界であったので、

私もついつられて「話し言葉」ではない「書き言葉」の世界に入っていた。

何をためらうこともなしに心のままで気持ちを

相手に伝えることができる「書き言葉」の世界――。


「私は貴方がたに感謝の気持ちを伝えたくて

こうしてわざわざ貴方がたのこの「絵」になっている時間を

そうと知っても崩しに来たのです」

私は――緊張していた。

「私は貴方がたがここに着いたときから防風林の陰にいました。

そして当然貴方がたがはしゃぐ姿を楽しませて見せていただきました」

これにはさすがに私も彼女も少し照れた。

「そのシーンを立派な「絵」になっていました、実に。

私も思わず若返ってその「絵」の主人公になったような気持ちで

長々と見させていただきました。

――そして、この絵にも貴方がたの姿を描き入れようと決意したほどです」

私は、たまらなく嬉しかった。嬉しかった。

この私が、この私がこの老画家に素晴らしい「一枚の絵」を提供してあげていたというのだ!

あぁ、私も少しはこれで――。


「だが、それは違う、と私はふと感じたのです」

「え?!」

肩透かしをくらった私は思わず声を上げて聞き返した。

「何故なら私はもっともっと美しい「絵」を貴方に見つけたのですよ」

と言って老画家がなんとこの私を指差した。

「―――――?」

全く、何も思いつくことはなかった。

「それはほんの少し前までの貴方の姿。

つまり、黄昏の海でシルエットとなった自分の恋人がはしゃいでいるという

美しい「絵」に少し離れたところで完璧に見とれているもう片方の恋人、

というそれはそれは美しい「絵」でした」


――この言葉は「一枚の絵」に対する今までの全ての私の考え方を吹き飛ばした。

(「一枚の絵」に出逢ったとき以外)滅多に衝撃を受けることがないこの私が

信じられないくらいの衝撃を脳天に受けた。

「私のこの作品にはそういった「主役」というものが全くなかった。

これを描いているときからそれには気が付いていたのです。

しかし、やはり何もなかった――。

もう少し言えばこの絵を貴方がたのような

恋人たちのシルエットを入れる構想はあったのです。

だが、それではどうしても描き手としての私の夢想となってしまう、

と分かっていたのでそれもできなかったのです。

貴方がたがその構想通りのことをしてくれたときも、

私は何故かそれを題材に描く気は全く生まれませんでした。

ただその「絵」を鑑賞するだけでした。

しかし、さきほどの貴方がたの「絵」は――

私のつまらない考えを消し去るのに充分な美しさでした。

もう一度、もう一度私は描いてみます。

美しい恋人の「絵」に見とれてしまったもう片方の恋人からの視点を中心に、

そしてその「絵」を第三者の鑑賞者の立場から見つめる私の視点からも――。

やってみます。もう一度描いてみます。

これは私の残りの人生の一大課題です。

あぁ、ありがとう。本当にありがとう。

私の妄想を開いてくれて本当にありがとう――」



老画家が去ってしまうと私は彼女の肩に顔を埋め、

一人の「人間」として初めて心からの涙を流した。

私はどこまでも愚物だったのだろう。こんなことにも気付かなかった。

私は今まで自分自身にばかり引け目を感じていた。

自分以外のみんなが私に美しいもの、優しいものを分け与えてくれる、

そしていざ私が逆の立場になろうとしても何一つできることなどない――そう決めつけていた。

そしていつも「権利」だけを酷使する勝手な人間、と自分を卑下していた。

やっとのことで何かをしたとしても、それは今まで受けてきたものに対しては

あまりに小さいこと、誇るに足りないこととやはり決めつけていた。


――だが、それは違うのだ。私の涙はそういうものだった。

私は何も他の人に与えられないでいるのでは、

「一枚の絵」を見せられないでいるのではないのだ。

私自身の知らないところできっと何かができている。

そう、私だけが何もできないと決めつけるなんてとんでもない。

私以外の人もきっと自分自身で意識していないところで「一枚の絵」となり、

私に色々なものごとを授けていてくれるのだ――。

「私だけが」なんてとんでもない。


要はそういうことだ。歪んでいた。あまりにも視野が狭かった。

何もできないのではない、自分から心を開けばそこに必ず「一枚の絵」は創り出される。

全てはこの私自身の心持ち一つにかかっていたのだ。


――もう私は迷わない。私が生きるところに「一枚の絵」は生まれ、

「権利」はもちろん「義務」すらももう考える必要のないことなのだ。

――これは自分が何もしなくていい、ということではない。

全ては自分から心を開いて優しさを、「一枚の絵」を

自分以外の人と分かち合えるかどうか、ということなのだ。

自分から心を開けばそこに必ず「一枚の絵」は創り出される。

自分にしかない「能力」を最大限に活かせば他の何ものにも引けを取らない

独創的な「一枚の絵」は創り出される。

老画家の残したあの言葉は私の蒙を全て啓いてくれた。

あの老画家と、そして今私を抱きとめてくれているこの素敵な女性に、

私は最高の感謝を捧げた。


――何より、老画家のあの一言を聞いて私は救われた気がした。

この作品はありとあらゆる美しいものに対する私の愛の告白である。



「一枚の絵~美の追求」 完



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