小説「一枚の絵」1話

一枚の絵~美の追求




――「一枚の絵」を見つけたときにはつい足が止まる。

「絵」になっているその風景の強烈な美しさが私の感性に直結してしまったような感銘を受け、

そんな神々しい芸術にめぐり逢うことが叶うたびに私は

(決してその犯しがたい美を損なわないという絶対第一条件のもとで)

その風景をできる限り傍観することを心から欲する。


加えてその美しい「一枚の絵」に永遠の命が与えられんことを

つい無意識のうちに何か、何者かに祈ってしまう。

非常に敬虔な心持ちでうやうやしくその偉人と

(自分が何の役も果たせないときは必要なだけの距離を置いて)

接しつづけるようなよき芸術の一理解者であろうと私は願い続けてきた。


ありとあらゆる美に対しては私の感性が勝手に一人歩きするようだ。

——私の感性は私のものにして私のものではない

――そう痛感せずにはいられないときが多々ある。

そして——この感性こそが自然体な本当の自分自身、

全ての余計な俗事を排除した真の私そのものだ。


「一枚の絵」の命は短い。

ほんの一瞬で鮮明に浮かび上がってきては次の一瞬に自らを永遠に崩してしまっている。

そんな瞬間の芸術であり、少し話がそれるが、絵画・写真という芸術部門は

紛れもなくこの瞬間美をつかもうとしているのだと私には思えて仕方がない。


それだけにその瞬時の輝きを見逃さぬよう、

ひとつでも多くその瞬時の輝きを見出すことができるように

目に入るものごと全てに自分から心を開き、プラスにとらえ、ロマンティックに読み取る必要がある。

きっとそこから「一枚の絵」は見えてくるはずだ。


そしてそのあまりの短命さゆえに私は「永遠の命」を与えたくなるのだ。

まずその瞬間の美を一瞬で心に「一枚の絵」としてしっかり焼き付ける。

現実どうりの「絵」としてではなく私の想像力が加わることにより私らしく変化がつくのが通例だ。

こうして改めて創りあげられたぼんやりとしたイメージの「一枚の絵」は

私なりの芸術的価値を持ち、こと私自身に対しては極に至るほどの魅力的な芸術となる。


その素敵な素敵な元の「一枚の絵」を他の誰かと共有しようとし、

その感動を伝えようとしても、それは今までの自分の過去全てを

誰かに完全に理解させようとする悪魔的な試みのごとく、到底叶うことではない。

何故人は自分の見てきた「一枚の絵」を自分だけのうちでは満足せず、

他人へ口をすべらせてしまうのか?


結局それはすでに答えの出ている

「一人では誰もが生きていけないから」というところに行きついてしまうのか?

己の心をさぐってみよう。

このあまりに本能的な欲求に明白な言葉としての答えを出してみよう。

他人の承認がなくては生きてゆけぬ人の弱さか?

他人と感動を分かち合おうとする人の美しさか?

「その理由は個人により様々だ」という逃げじみた大衆の答えはいらない。


だが――やはり答えはひとつ、初めから出ているアレだろう。

それしかない。ひどく抽象的な言葉ではあるが。

いくら考えてもこれしか――思い浮かばないのだ。

すなわち――「誰もが心の寄り所を必要とするから」。

それはごく自然なエゴ、ごく自然なプライドであり、

その後に「芸術」なんかはついてまわる。

――答えの進展はなかった。

私に今言えることは――自分の生きる過程で得てきたものごとを他人に伝え、

認められようとすることは人間の本能、それが人生だ――そんな曖昧な言葉でしかない。

とにかく、伝えたいのだ。もっと言えば伝えなくては生きてゆけないのだ。

自分の見てきたものの感動を自分に最も近い距離のかけがえのない人間に

伝えなくてはならない必要が人にはあるのだ。


そう、伝えなくてはならないのだ。

究極の理想としてはその「一枚の絵」を100%同じく見せてあげたい。

しかし、それは100%不可能だ。

1%でも欠けるのならその本物の100%の「一枚の絵」の真意も崩れてしまう恐れがある。

そして1%でも欠けたものなら無理をして他の人間に見せる価値など全くない。

ならば何か他の手段で、何か別の方法でその「美」を伝えるべきなのだ!

ではこの私もその「一枚の絵」をそのまま絵画として、

写真として表現しその誰かに伝えるべきなのか?

――私の場合はそれでは何かが違う。

私の場合は何かが違うのだ。では、どうやって?





現実の「一枚の絵」だけを永遠に見つめようとする人間はあまり賢いとはいえない。

あくまでそれは盛者必衰の理をなす、形のないものだから。

そしてそれだけにその栄光の一瞬が貴い。

私はあまり見過ぎないように去る。だって裏切られたくはないから。

そして私はその生命の火花が散る瞬間を永遠に活かす。

一瞥をくれて次の瞬間には忘れ去ってしまう人間と脳裏に永遠に生かし続けることができる人間

――私の感性で大別すればそんな二つの人間分類になる。


では、どうやって永遠の命を吹き込むのか?

どのようにしてその感動を自分以外の誰かに伝えるのか?

そして――その際にそのまま伝えようとするのならば、

それはあまりに何の新味のない、愚にもつかない繰り返しではないのか?

つまり、伝え手の感性を通し「アレンジ」することが何よりも大切なことであり、

自分の胸の内だけにしまっておくことができない人間が「伝え手」となることに

求められる当然な「条件」だ。


音楽に生きる人は向き合うものごと全てが「音」として心に映るという。

同じく旅行業に従事する人は全てを旅行業に関連させ見てしまうという。

恋をしている人は全てを恋の延長線上にとらえ、

哀しみに暮れている人は哀しみだけに見えてしまう。

職業病というか、人間性の習慣というか――。


――いずれもそれが個の真実。大いに結構。

ならば私には、その奥を相手の想像力(創造力)に任せる「言葉の芸術」で——でしかない。



→進む



トップページ小説トップ一枚の絵トップ








Copyright (C) 1997 - Ken Box. All Rights Reserved.