小説「愛日常」
ペースランニング




「僕はね、学生の頃相当身体を鍛えてたんだ。

いつも実家近くの桃畑を走っていた。

学校のマラソン大会は毎回一位だった」

「陸上部?」

「いや、うちの高校には陸上部がなくてね、僕はバレーボール部。

でも、バレーボールをしてたことより、

部活サボって走ってた記憶の方が強いかな」

みんなは黙って話を聞いてくれていた。

いつの間にか他の客が退き始め、静かなBarになっている。

なんか思い切ったことを言えそうな雰囲気だ。

声を大きくする必要もなく、僕はまた独り言のように語り始めるのだった。


「自分の体力には絶対の自信があったよ。

誰にも負けないという意識もあったし、何より自分自身に誇りがあった。

いや、他人と比較してどうこうということじゃなくて、

いつも問題は自分だけだったかな。

とにかく自分を高めないといけない、という意識に駆られていてね、

身体を鍛えることだけに夢中だった。

プロのマラソンランナーになろうと思ってたわけじゃない。

とにかく走って自分を磨こう、っていうただそれだけだった」

スムーズに言葉が出る。

こんなこと、誰にも言えなかったのに、この初対面の彼らには抵抗がない。

不思議なことがあるものだ。何のせいだ。やっぱりこのBarの空気か。


「大学も地元だったけど、やっぱり僕は走っていたかな。

勉強だってバイトだってしたけどね、身体を鍛える方が全然好きだった。

当時の僕は毎日走っていたんだと思う」

言葉の精霊が宿ったのか、僕の口は止まらない。

「だから走ることとか、山登りとか、そういう持久力には絶対の自信があったね。

山も登ったよ、それも一般的な所要時間をぶっち切りで短縮させてね。

それが快感だった。僕は強い、僕は強いって信じたかった。

身体だけじゃないよ、身体を鍛えるのは心を磨くことだし、

何より鍛えることで自分自身に自信がついた。

会社に入ってからも、自分に自信があったから頑張って仕事を憶えようとした。

体力にまかせて残業だっていくらでもやった。

馬鹿じゃないと思うし、要領も悪くはなかったから、

今はそれなりの仕事はできている。ちゃんと自立しているんだ」

――何だ、この話は。ここだけ聞くと自慢話みたいじゃないか。

でもこれは自慢なんかじゃない。一番のコンプレックスの暴露だ。


「最近だよ、本当にここ最近の話。

知らないうちに身体が鈍くなっていることに気付いたんだ。

たまの休日に走ってみるだろう、まとまった休みに山登りしてみるだろう。

あんなに鍛えた僕の身体が、あの頃のようには動いてくれないんだ。

確かにね、大学を出てこっちに越してきて、会社に入ってからは走ってないし、

休日にちょっと身体を動かす程度だよ。

いくら鍛えた身体でもほおっておけば鈍ってくる。当たり前の話なんだけどね」

そこで慶が口を挟んできた。

「走り続けなかったのが悪いよ」

「その通り。それは分かっている」

「今いくつ?」

美夜子が聞いてきた。

「二十六だよ」

「二十六かぁ〜」

そう聞いたところで、十代の彼女には分からないだろう。

「でも、その体力があるから会社でもしっかり働けるんでしょ?悪くないじゃない」

今度は四季だ。

「そう、入社してすぐの頃はそう思ってた。でもね、最近は違うんだよ」

「そこが知りたいね。話してよ」

慶らしい言い方。話すから聞いてくれよ。


「僕はね、走ることで鍛え上げた身体と心が、

今までの人生で獲得した唯一の宝物だと思っているんだ。

社会人になって、親の世話にならず自立したのは大切なことだったよ。

そのための仕事だったけど、

最近は仕事の重要さをこれまでのように感じなくなってきている。

それよりも、唯一の宝物だった肉体が鈍くなってきたことの失望の方が大きい。

自立か肉体かと言われれば、今の僕にとっては肉体の方が優先だ。

それも自立することが前提だよ。

この年齢になって、自立をカバーした上で

肉体にまで興味を出す余裕がようやく生まれた。

でも現実はそうじゃなくて、毎日遅くまで働いて、

土曜まで働くこともあって、日曜は休むだけの生活だよ。

ちゃんと走ればいいのにそんな気分にもなれない。

自分の弱さが一番悪いとは知ってるんだけど、言い訳ばかりだ。

僕はこれ以上身体を醜くしたくはない。

同時に仕事もこなす。

その両方のきっかけを作ろうとしてずっと考えていたんだ」

「まさか、みんなで一緒に走るとかじゃないよね?!」

美夜子がそう聞いてきた。いや、そういうことじゃない。

「違うよ。僕が自発的に走るようになればいいだけ。

そこまでみんなの力を借りるわけじゃないから」

「でも、それがどうして土いじり?ヘンだよ」

「うん、僕はもうひとつ思っていることがあるんだ。

長くなるけど聞いてください。

東京で働いて、初めて自然が貴重だっていうことに気が付いた。

故郷にいる時は、田舎は嫌だな、

東京に出たい、って言う気持ちだけだった。

古臭い山梨に一生いたいと思わなかったから東京で就職したんだ。

最初は会社の寮がある大森に住んでいてね、

三年で退寮しないといけないからこっちに引っ越してきた。

会社から遠くなったけど、こっちの方がいい。まだ自然がある」


僕はどこまで話すのだ。ついでに全部話してしまえ。

「だってさ、東京には自然がないんだよ。

なんだよ、あのビルとアスファルトで作られた街は。

空気は悪いし、あんな所で走った方が逆に身体に悪いぐらいだ。

そんな街で暮らしていて、たまに郊外に出たりした時に

ふと自然の偉大さに気が付くようになった。

でも僕の仕事場は東京なんだし、思い切って地方に移住する決心もつかないし、

別にそれをどうこうしようということじゃない。

それでも、僕はもう一度自然に触れてみたいと思った。

いつかの鍛え上げられた僕の身体と自然には共通点があるんだ。

利益追求ではなく、見返りを求めていないこと。究極はそこにたどりつく」


一息つく。まだ続けるぞ。

「昔は走ること以外全部できないと思っていたのに、

今は走ることだけができないと思っている。

会社の仕事は労働。同じ身体を使っても運動じゃないから

いくら動いたところで身体にはよくないんだ。

僕は自然に触れることをきっかけとして自分自身をもう一度見直したい。

どうせなら、昔僕が身体を鍛えていた場所が

実家の山梨にあるから、そこの自然に手を加えたいんだ。

あぁ、これが叶うなら僕にとってはそれ以上の宝はないよ!」


すっかり全部話してしまった。

僕という人間の今は、そのまま今の言葉に置き換えることが出来る。

他人にここまで話してしまって良かったのか。

第一、ちゃんと理解されているのか。




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