小説「愛日常」
癒される




店に入るとマスターが迎えてくれた。

金曜の夜なのに客がいない。

テーブルに座り、ソルティドッグと野菜スティックを頼む。

彼はギネスの黒ビールを注文した。

会社を出たところで食べていたのでお腹は空いていない。


「シンプルなのがいいと言ったね。

例えば、このつまみはどう?

揚げ物とかも美味しそうだけどあえて野菜スティックを頼んでみた。

生野菜を塩や味噌だけで食べるのはシンプルってことなのかな?

「そう、そういうこと。いいねぇ、生野菜。いいねぇ」

彼は機嫌よく頷いていた。

「できればもっと大きなのがいいけど、

そういうシンプルで小さいのも僕は好きだからさ」

まただ。彼は大きなことと言う。僕はそれに興味はない。

大きなこと、か。

社会を知らない学生にありがちなことを考えているのだろう。

かつての僕もそうだったから分かるよ。


「それで君は大学生?」

今更ながら初めて個人的なことを聞いてみた。

ふと、階段の軋む音がした。他に客が来たのらしい。

中年太りのサラリーマンと若い女。マスターが出迎えて席に通した。

男がうるさい。結構飲んでるな。静かにしていてくれよ。

「四年目を留年中。卒業後に何をするのか迷っててね」


少しも悪びれることなく彼は言う。


「いいんじゃない。時間あるんだからよく考えればいいと思うよ」

「そうですか。で、どうです社会人って。

まるで想像できないんですよ、会社勤めは」

「何とか凌いでいる感じだね。特別の感動もないけど、生活は安定している。

自立できたし、そんなに悪くない」

それが素直な感想だった。

わずかそれだけの言葉で的確にまとめられる。

その容易さに我ながら呆れてしまう。


「自立。自立かぁ。難しいですよね、そこの割り振りが。

大き過ぎたら足元がないし、かといって足元だけじゃぁねぇ……」

何言っている。分かる気もするが、やっぱり分からない。

「今年卒業?決めてるの、進路は?」

「未定。不定。暫定だけは嫌なんで」

そう。それなら別に何も聞かないよ。

僕だってサラリーマンなんて嫌だった。

でも、親にそれ以上面倒かけることはしたくなかったからすぐに就職した。

まぁ、道なんていくらでもある。

みんなそれぞれ個々の状況に生きているのだから

他人が口を挟むことじゃない。


向こうのテーブルからは男の話し声ばかりが聞こえてきた。

だいぶ飲んでいるらしく声が大きい。

女は相槌を打って話を合わせようとしている。


「どうしてあなたはフルムーンサイクリングが気に入ったのだと思います?」

どうして。それは意外な質問だった。

考えたこともなかったが、考えてみると答えは既に出ていた。

「はっきりしてる。会社勤めしているからだね。

妥協の中に長く漬かっているからこそ見えてきたものだと思う」

「へぇ。それはどうして?聞きたいなぁ。是非聞きたいなぁ」

身を乗り出すようにして彼が聞いてくる。

サラリーマンがそんなに興味あることなのか。

「いいけどさ、後で僕も聞きたいことあるから聞くからね」

「ん?何?いいですけど」

「そう。あのさ、やっぱり会社勤めをするのに感情はいらないんだよね。

もちろんずっと無表情のままってわけじゃないけど、

凄く感動するとか、大きく失望するとか、そんなことはなかったよ。

毎日は平凡で、感情の高低は不要で、

そんな中にずっといるとなんとかしなくちゃ、

自分の人生をなんとかしなくちゃ、って思えてくるんだ」

「うん、うん」

彼はよく聞いていた。


「僕の場合は働き始めて四年も経たないうちにそうなったよ。

一時仕事に全情熱を注いだ時があったけど、

それが所詮は無意味だと知った時からそうなった。

どれだけやっても、結局一人の仕事じゃ何も変わらないんだ。

それからもうずっとこんなこと考えている」

彼に分かるのだろうか。

社会経験のない彼にこんなことまで言ってしまっていいものなのだろうか。

「最近そんな僕の心に自然体で入ってくるものがあってね。

それが、君の言うところのその『シンプル』なヤツなんだ。

朝の挨拶を爽やかにするのでもいい。

仕事の合間に当たり障りのない天気の話をするのでもいい。

ただぶらぶらと公園を歩くのも、無邪気に動物と触れ合うことも、

僕の心を捉えて離さないんだ。

下らないことだと思うだろう?でも今の僕には違うんだ」

「現代の『癒し』って奴ね」

「そうかもしれない。

自分ではそうは思っていないけどやっぱりそうなのかな。

忙し過ぎる仕事に、ややこしい人間関係。

人の下らなさも一杯知ったし、数は少ないけどいい思いだってした。

全体的に後悔だらけで傑作はわずかかなぁ。

とにかく、右から左まであらゆる日常を見てきて

最後に残ったものがそういうことだったんだ。

これは貴重だよ、これこそ本物だよ」


分かるのだろうか。彼に分かってもらえるのだろうか。

「なるほど。分かる気がします。

僕が言っても説得力ないと思いますけど」

「いやいや、少しでも分かってもらえるなら嬉しいよ。

フルムーンサイクリングをいいって言ったぐらいだから、

君も分かってくれているんだと思う」

なんだか安心した。誰かに届いた。ただの独りよがりではなかった。


「で、聞きたいことって?」

「そうそう。『大きなこと』って何?

やりたいって言ってた『大きなこと』って」

「あぁ、それ。具体的じゃないんで聞き流して下さい。

自分でもはっきりとは分かりません。

ただ、大きなことですよ。

大金を稼ぐことかもしれないし、大きな人助けかもしれない。

あなたの言うような『シンプル』なことかもしれないですね。

その『大きなこと』が自分にとっては何なのか、

まだ自分でも分かっていないんです。

ただ、妥協じゃなくて、自分が心から納得できる何かという、それだけです」

「分かった。そういうことね」

「まだまだ全然見えてこなくて」


社会経験のない彼にどうして

フルムーンサイクリングの良さが分かるのか不思議だった。

でも、これを聞いて分かった気がする。

僕にもやはり同じようなことを考えていた時期があった。

社会に出てからしばらくはそれが止まっていたが、今また復活したと思っている。

彼の言う『大きなこと』が、僕にとっての『シンプル』なことなのではないだろうか。

そうだとすれば、僕たちは同じようなことを考えていて、

だからフルムーンサイクリングで一致したのだろう。



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