小説「愛日常」
東京の生活




午後十一時。Barは賑わっていた。

酔客の中に昭と慶の姿もある。

十二時まで待ってみようと言い出したのが昭で、

それを一時まで延ばそうと言ったのが慶だ。

そのくせ、あまり待っている素振りはない。

飲みながらただ楽しそうに話し続けているだけだった。


「いやぁ、自然に帰るというのは本当にアイディアだよ。

文字通り地に根を張った立派なアイディアだ。

どうして僕にはそれが思い浮かばなかったんだろう。

僕はね、それこそが『大きなこと』じゃないかってさえ疑ってきた。

まだ分からないけどね」

「そう?そう思うならよく考えてみるといい。

僕がこんなことを思い始めたのも本当にここ一〜二年のことだよ。

それまでは自然なんて意識したこともなかった。

自分を東京の街にどうやって重ねてゆくのか、

それだけしか考えていなかった」

「同じ。先は見えてないけど、選択肢に自然はなかったなぁ。

この前言われた言葉が、あれから頭の中でぐるぐる回りだした。

これが最終結論とは思っていないけど、

今は君がやろうとしていることに賭けてみたい。

自分でも不思議な冒険だよ」


僕は嬉しかった。

先週出逢ったばかりのこのちょっと変わった男は、

僕の空想を本気で一緒にやろうと思ってくれているらしい。

「東京に住む人たちに、守らなくてはならない環境がないからだよ」

突然何だ。どういう意味だ。

「守らなくてはならない環境?」

鸚鵡返しに聞いてみた。

「そう。東京には日本全国や世界中から人が集まっているからね、

誰もが東京を自分の故郷だとは思っていない。

そんな人たちが住むから無責任な生き方になってしまうんだ。

自分の周りの自然や生活環境を保全しようという気が全くない」

「そういうことね。分かった」

「昔からそうなんだ。そのツケが今になって東京中に現れている。

五十年という時間に自然喪失を急加速させてしまったこの東京では、

取り返すために五十年、いや百年の時間を必要とするのだろう。

哀しいじゃないか。

僕たちが生きている間にですら取り戻すことはできない」


慶が饒舌にしゃべり始めた。

あぁ、言ってくれ。もっと怒りをぶちまけてくれ。

「都心に流れる川を見たことはあるかい?

僕はない。

何故なら、コンクリートで岸を固められたあの水の流れは、

川と呼ぶことができないからだよ。

単なる排水路だ。

マンホールで目隠しもされず、野ざらしにされた排水路だ」

「そうだね。僕の故郷の川と比べたら大違いだ」

「そうだろう。川辺に葦が生え、浅瀬があり、小さな水生昆虫がいて、

様々な生態系が混在しているのが川だ。

川って本当はそういうものだよ。

……で、どこなんですか、故郷は?」


急に口調を変えて慶が聞いてくる。

「山梨の御坂、っていう町だけど知らないでしょ」

「知らない」

「何もない町だから。桃畑だけだね。あるとすれば」

「あるじゃないか!桃畑なんてものがあればそれだけで立派なものだ」

「そうかな。子供の頃はそんなことちっとも考えなかった」

「子供の頃は誰だってそんなものだよ」

この男は変わっている。改めてそう思った。

まだ大学生なのに色々考えている様子といい、なんか普通ではない。

僕が大学生だった頃とは全然違う。

身体を鍛えることと、酒を飲んでばかりで過ごした僕の大学時代。

何かを真剣に考えたことはあったのだろうか。

考えることよりも短絡的な行動ばかりが先走っていたというイメージしかない。

「僕はね、育ちは東京だけど、北海道の釧路で生まれたんだ、」

慶がそう言った時だ。

入口の扉が開く鈍い音がして、僕たちは一応振り向いた。

――本当に来た。あの少女だ。



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