小説「愛日常」
本当の自分




意外だった。まさか本当に来るとは思っていなかった。

あまりに嬉しかったので笑いながら彼女に手を振った。

ふと、その手が止まる。

少女の後ろからもう一人女性が入ってきたからだ。どうしたのだろう。

「さっき知り合ったお姉さん。一人じゃ来辛くて」

僕たちの前まで来ると、少女はちょっと手を出して紹介した。

上品なスーツを着た、知的な顔立ちの女性だ。

僕より少し年上だろうか。

紹介されると女性は愛想よく笑みを浮かべて会釈をした。

こんな場には相応しくないほどしっかりした仕草。


「四季です。連れてこられてしまいました」

「ようこそいらっしゃいました。さっき知り合ったって凄いですね」

歓迎したいし、何があったのか遠回しにも聞いてみたい。

まずは普通に挨拶しておいた。

「ええ、ちょっと。お二人はこの娘のお友達?」

はい、そうです、と僕が言いかけた時だった。

凄い勢いで横から慶が割り込んできた。

「いえいえ!今から友達になるところですよ!」

その勢いに女性も面食らったようだった。あいつが一気に口を開く。

「いや、正確に言うと友達にはなれないかもしれません。

彼女がここに来た以上、仲間になれる者同士かなとは思いますけど。

で、はっきり言っておきますけど、

別にこの娘を狙っているとかそういうことじゃないんですよ。

先週知り合ったばかりですからね。

決してまだ友達じゃないし、

これから一時的な仲間になろうとしている関係です、ご心配なく」


こいつには説教癖があるぞ。まずい、いきなりこんなのじゃダメだ。

「まぁ、まぁ。とにかく座りましょう。あ、マスター、ちょっと席移ります」

慌ててそう言いテーブル席に女性二人を座らせる。

僕たちもグラスを持ってテーブルに着いた。

彼女らのオーダーを聞いて注文する。

少女の方はカクテルを、女性はアルコール飲まないから、と

マスターにスペシャルのソフトドリンクを作ってもらうことにした。


少女は口を開かないし、慶は一転して周囲を眺めるだけで上の空になった。

女性は僕たち男二人を観察しているようだ。

話しづらいな。別に世間話がしたいわけではないし、

どうせ最初から肝心な話だけしようと思っていたから、

いきなり言ってやることにした。

「初めから言っておくよ。

別に知り合いじゃないんだし、

気が乗らなかったら遠慮なくこの店を出てゆけばいい。

誰も止める人はいないよ。時間の無駄は避けた方がいいからね」

「そうだ」

慶が小さく頷いてそう言う。

少女はテーブルを見つめて黙ったままだ。

女性は平静な表情で聞いていた。


「僕には今までの人生で築き上げてきたものが何もない。

本当にひとつもないと思っているんだ。

それどころか、学生の頃に鍛えた身体の衰えが激しい。

あの頃は幾ら走っても音を上げなかった身体が、

今はそれこそ数百メートル走っただけで息が上がる」

こんな言葉、どこでも言えるわけじゃない。

薄暗いBarの雰囲気と、この言葉を聞いている人たちがどうせ他人だという意識が、

僕の独り言をスムーズにしてくれる。

「大学卒業以来、五年仕事をしてきたけど、僕は悩んでいるんだ。

男の生き甲斐は仕事だ、って言うでしょ。

でも、今の僕にそうとは思えない。

仕事は作業で、作業は所詮作業だよ。

決して生き甲斐があるわけじゃないし、

別に会社組織の中で上へ上がることが良いとも思っていない。

それよりも、僕が昔から興味があったのは自分の身体を鍛えることなんだ。

子供の頃から近所を走り回って、学校に入ってからはクラブ活動で身体を鍛えた。

当時は何も考えていなかったけど、走ることが自分を向上させていたと思うんだ。

そういうピュアなことこそが人生では大切だと思うのに、

今は会社への往復の毎日と、疲れて何もしない週末の繰り返しの生活だ。

僕の身体が日常に埋没してゆく。

これじゃいけない、これじゃいけないと思ってもうかなりの時間が経った」


マスターがドリンクを運んできてくれたので女性二人に渡す。

「乾杯しよう。何のためか分からないけどさ」

慶がそう言って自分からグラスを上げた。

何のためでもなく静かにみんながグラスを合わせる。

「――で?」

慶がそう振ってきた。

「もうしばらくしゃべらせてください。

つまり、今の僕には何も生き甲斐が見当たらないということだよ。

社会人になった途端に僕の毎日は崩れだした。

入社当時は社会人としての知識や常識を身に付けることに必死だったけど、

五年も働けばそれももう大体身に付いた。

ここら辺で自分に相応しい道を選ばなくてはならないのに、

選ぶべき道が分からない。これがどうしようもないんだ」


自分でも驚くぐらい言葉が出てきた。

元々頭の中にはあったのだろうが、

今夜は頭の迷いを随分素直に口が代弁してくれる。

アルコールのせいか。今週分の仕事疲れの反動か。

「最近僕は分かってきたんだ。自分のやりたいことが。

やりたいことというか、その前の段階の話かな。

話が飛躍するよ。最終的に僕は自分の肉体を蘇らせたい。

そのために今できることがある。

僕にとって肉体の象徴は、故郷の桃畑なんだ。

学生時代にいつも走っていた桃畑。その場所の自然を蘇らせたい。

今はきっと荒れ放題になっている。

蘇らせてそこでどうしたい、ということではないんだけど、

とにかく今はその場所を再生させたい。

その見返りを求めない作業を日常的に続けることが、

ひいては僕の再生につながると思うんだ。

今まで何もなかった人生だから、

この人生に区切りと確かな証拠を残したいんだ。

お金じゃない、恋愛でもなく、酒でも仕事でもない。

自然だよ。肉体だよ。

自分の身体だけを使って、自然を蘇らせたい。

この身体ひとつで立派な桃畑を創ろう。

桃畑だ!」


一気に言いたいことを言った。ほら、おかしな言葉だよ。

こんな地味なことを考えている自分が恥ずかしい。

みんな黙って言葉がない。

恥ずかしくなって僕は目の前のグラスに口をつけた。



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