小説「あなたにありがとう」2話

酸化していくワインのように




彼女のビザが切れる残りの数ヶ月を指折り数えている頃だった。


ある週末の夜、家の電話が鳴り、僕はさくらだと思ってワンコールで受話器を取った。

もう咄嗟に向こうがサマータイムで朝の何時なのかと頭で計算できるようになっていた。

相変わらず僕はつまらないエアメールを送っていたが、ここ数週間も彼女から返事が届いていない。

その代わりに電話をしてきてくれたのだと思った。


電話の声は似ていたが、彼女にしては暗く、僕はまた何かの間違い電話かと思った。

だが、彼女の妹と名乗ったその女性から告げられた言葉こそが

間違いだと僕は思い込みたかった。

(――姉の机にあなたとのエアメールが残っていたから電話しています。

姉は先々週、交通事故で死にました。

今、家族でカナダに来て荷物の後始末をしています――)


そんなことはないと思った。そんなはずはないと願った。

たちの悪い悪戯か、僕たちを邪魔しようとする誰かの悪意ある仕業と信じた。

あのさくらにそんなことが起こるはずがない。

電話を切り、冷静さを見失った僕は公園に出ていた。

そしてまた何時間も何時間も、狂気の中で歩き続けた。


そんなことはない。

あのさくらが、あのさくらの好奇心が途中で途切れるはずがない。

歩き、歩いてこの馬鹿な妄想を取り払おうとする。

歩き疲れ、やや冷静に戻って思うことは、

やはり嘘でしかないという当たり前な決め付けでしかなかった。

それが事実であるとようやく受け入れようとしたのは、

彼女の墓だという場所に足を踏み入れた時のことだった。


季節は夏に移っていた。

彼女の妹から送られてきた地図の墓地に僕は向かっていた。

彼女の墓だなんてどうやって信じろと言うのだろう。

あと少しでビザは切れるから、それが彼女が僕の元に戻って来てくれる引き金となるはずだから。


それは単純な事故だったという。

飲酒運転の車が反対車線に突っ込んで

彼女が同乗していた車を砕き、さくらと僕の将来を強奪していった。

墓地の一角に彼女の名前が刻まれた墓石を見つけたときの僕の心の空白を、

誰がどう理解し、同情してくれるのだろう。


どうやら、彼女は逝ってしまった。

遥か遠いカナダの地で僕を置き去りにしたまま、僕の知らない場所で永遠にいなくなってしまった。

彼女がカナダで何を得たのか、何を求めてカナダに行ったのかさえ知ることなく、

一年前のいつもの姿だけが僕の脳裏に残り、僕は本当に置き去りにされたのだと知った。


僕の生活でなによりも大きな存在だった恋人。

彼女の世界でもそうだったと思い込むのが楽観的過ぎることは知っている。

なにしろあの興味心の固まりだ。さくらという人間はひとつに縛られるような器じゃない。

男は僕一人でも、他への興味は湯水のごとく彼女から溢れ出している。

だが、彼女が死んだことすら僕が知らなかったとは。

そんな決定的な事実を後になってしか知ることができなかったとは、なんという仕打ちなのだろうか。

彼女は僕が知ることを望んだのだろうか。

僕よりも家族や友達のことを思うだなんてことが、

そして僕以外の男性のことを真っ先に思うだなんてことがあったのだろうか。

初めて僕に彼女のことを疑う気持ちが生まれていた。


結局僕は彼女の葬式にも呼ばれず終いだった。

それは彼女の意思だったのだろうか。

それとも、僕たちのことを知らない彼女の両親が

勝手にしただけだと思い込んでいいものなのだろうか。





彼女だという墓石に花を捧げる。

既に周りは色とりどりの花束で一杯になっていた。

僕はさくらに花なんて贈ったことはない。

どうして、初めての花を直接彼女の手に渡すことができないのだろう。

自分からしっかりと想いをさくらに伝えた記憶がない。

もう自分自身が情けなくなってくる。


彼女と初めて出逢った時もそうだった。

人もまばらな放課後のワープロ教室で、使い方を聞いてきたのがさくらだった。

好奇心丸出しの大きな瞳をして、ワープロのことから始まって次第に僕のことを聞いてきた。

あの遠い記憶。

どうして彼女はこんなつまらない男に興味を持ったのだろう。

僕はさくらに初めて出逢ったその日から、一日も欠かさず彼女のことを想っている。

僕にとっては当たり前のことだ。

でも、さくらはどうして僕なんかと――。

奇跡の様な出逢い。

別れ際、名前を聞いてきたのもさくらからだった。

名前すら、名前すら僕から聞いていないのだ。

彼女との日々は全てにおいて彼女が優先されていた気がする。

僕はどこまでもつまらない人間なのだと、はっきり決め付けられたあの日々。


僕にはもうその資格がないのだろうか。

カナダに行く彼女を強引にでも引き留めていれば、

逢いには来ないでという彼女の言葉を無視してでも

バンクーバーの地に降り立っていれば、

今日こうして彼女の名前の墓石の前に立つことんどなかったはずなのに。

愛しいあの手のひらに触れたい。

僕を優しく包み込んでくれたあの彼女の手のひらに。

墓石に手を触れてみる。ほのかに宿る太陽熱。

だが、僕と彼女の間には日本とカナダを隔てる広く冷たい海が横たわっている気がした。


彼女の妹が同封してきた手紙があった。

一緒にあった写真からして、きっと事故の直前に書かれたのだろう。

いつもより長文で、いつもより字が汚い。

出されることのなかったそのエアメールは、彼女の告白の手紙だった。

僕はその手紙で初めて彼女がカナダに行こうとした理由を知った。


彼女は両親に見合いを催促され続けていたのだという。

平凡な会社員の僕よりも、父親の地元の優良企業の御曹司と結婚させようと、

両親が執拗に彼女に迫ったという。


(わたしはそんなの嫌。わたしはわたしの人生を歩いて行きたい。

ケン、わたしね、色々見てきてようやく分かったの。

今の時代にはたくさんの選択肢がある。

ねぇケン、人生はドラマだけじゃないよ。

平凡でも優しいあなたが全て。刺激も興味もいいけど、平静が一番大事。

わたし、あなたの大きさがようやく分かってきたの。

でもケン、まだわたしたちは結婚に踏み切るほどの覚悟はないでしょう。

わたしはあえてあなたと離れることで、あなたへの気持ちを確かめようとしたの。

それと、あなたのわたしへの気持ちを確かめようとしたの。

ごめんね、ケン。あと数ヶ月。ケン、わたしはあなたの元に行くわ。いい?)


――彼女は手紙にそう書いていた!

――ついに僕を選ぶと書いてきてくれていた!


だが、その手紙が投函されることがなかったとは。

あとは切手を貼るだけなのに、それが決断できなかったとでもいうのか。

何かのためらいがあったとでもいうのだろうか。

最後のわずか三文字に籠められた彼女の一番大切な問いかけに、

僕が返事することすらできなかったとは――。


きっと、この手紙を見つけた妹が姉の気持ちを想い、

親に隠れて電話もしてくれたし、この手紙も僕に届けてくれたのだろう。

手紙には何故か彼女のパスポートの最終ページのコピーが同封されていた。

日本住所に「Ken, +81-3-XXXX-XXXX」と僕の電話番号がある。

不可解なことだった。一度両親の連絡先を書いてあったのに、

わざわざそれを二重線で消してその上に僕の連絡先を書いている。

僕の名前があるのは嬉しい。

でもどうしてこんなところにさくらが書いたのかよく分からない。


僕には彼女が全てだった。

何もかもが初めてで、何もかもがさくらと切り開いてきた月日だった。

今までもそうだったように、これからだってきっと回り道はあるものの、

もうあとはずっと彼女といられるものだと思っていた、僕はそう信じていた。


僕はこれからどうすればよいのだろう。

さくらを失くして何がある?

一人で生きてどこに意味を求めるのか?

あぁ、彼女の記憶をどう活かせばいい?

初めてキスしたあの海辺を。初めて夜を共にしたあの夏の鼓動を。

情熱を重ね合った激しい季節を。


それからの僕は、不用意に空気を触れて酸化してゆくワインのように、

内面からじわじわと崩壊していった。

彼女と過ごした時間の意味に気がつくようになるまで、長い長い時間が必要であった。



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