小説「あなたにありがとう」3話

人生の宝物




――それから十数年もの時が流れ、僕に新しい感覚が宿るようになった。

四季の花を美しいと感じる心である。鳥の鳴き声を愛でる意識である。


浅い春、薄桃色に映えた恋の季節。

優しい色使いで、鮮やかに燃えた。

仕事帰り、家路をたどる公園の道すがら、僕は彼女のことを思い出している。

月明かりを歩き、夜の噴水を目にすると、彼女とのことが今も鮮明に浮かんでくるのだ。


あの混乱した頭。

ひどく自分を狂わされた浮気と彼女の死のこと。

あんな出来事はその後の人生でも二度となかった。

あれほど哀しいこともなかったが、さくらとの時間ほど忘れられないものも、またない。

彼女と抱き合って眠った数少ない夜のことを想うと、僕は訳もなく涙を流したくなる。

追憶が滲む。愛しさが溢れてきそうなのだ。

今になってはもう届かない、あれが僕の人生の頂点だったのだ。


結局、さくらとの恋愛は実ることなく終わった不遇なものであったのかもしれない。

この世界に様々な恋人たちがいるが、相手の突然の死で終わる恋愛はなんと哀しく、

そしてある意味でなんと美しいものなのだろうか。


さくら。僕はあなたに言いたいことがある。

今では僕も結婚し、子供に恵まれ、自分の家族ができた。

これから家に帰れば、温かな家庭が僕を待っている。

これ以上求めるべくもない幸せな暮らしだよ。

あなたと一生を過ごそうとした頃には予想もできなかった人生を送ることになった。

それはそれでいい。人生はそういうものだと思う。

あのパスポートの裏のこと。

あれから僕は勝手に解釈するようになった。

カナダと東京で離れ離れになっていた時、

あなたにとっても僕の存在が大きなものになっていたからと信じてもいいかな。

それは両親をも上回る程に。


(ビザ取ったよ〜。それも自分で行ってきたんだからスゴイでしょ?

ケン、カナダ大使館すっごくキレイだった。あ〜でもビザうれしいな〜。

ほら、パスポートにスタンプが増えるごとに人生が豊かになるって言うでしょ〜。

えっ、そんなの聞いたことないって?

いいの〜とにかくそうなんだから〜!あはは!あはははは!)

そう言って、はしゃいでいたあなたの姿を思い出す。

そんな思い入れのあるパスポートだから、

そこに僕の名前を書いてくれたのは余程のことだったのかな。

勝手にそう信じ込んでもいいのかな。

どこにも答えはない。もう分からないこと。もう誰にも、分からないこと。





噴水広場の開けた空。眩しい月を見上げる僕。

立ち止まり、そっとまぶたを閉ざして、心の中でこう呼び掛ける。

――ありがとう。僕はあなたにそう伝えたい。

結ばれなかった二人でも、あなたは僕に人を愛する気持ちを教えてくれた。


さくら。ありがとう。

誰かを心から愛するということがこんなにも大切だっただなんて、

まだ若い、花や鳥の美しさにも気がつかなかった頃には分からなかった。

人を愛することが、どれだけ自分の心を豊かにさせてくれるか。

僕は、あなたと離れ離れになってから、初めて分かったような気がする。

これは普通のこと。きっと、どこにでもあるごく当たり前のこと。

日常は普通を意味するものだから、今ではこの思い出ですら日常に埋没している。

ただ、平凡な人生に非凡なあなたがいて、一時の非凡の恋をして、そして僕はまた平凡に戻った。

毎日は平凡の繰り返し。あなたとの日々だけが一瞬の特別だった。


僕は毎日を静かに積もる雪原のようだと感じている。

音も無く、なだらかに重なってゆく小さな雪たち。

それは平凡そのものだ。

いつか彼女は雪をドラマのかたまりだと言った。

僕がそう感じることは結局なかった。

ただ、その平凡な僕の雪原にも表情のあるわずかな瞬間があった。

さくらとの時間だ。


あのさくらがいつまでもひとつの場所でじっとしていられるわけがない。

好奇心一杯の彼女だ。今もきっと風の中で走り回っている。

だから公園の夜風に混じって聞こえてくるようだ。

ねぇケン、ほらケン、ケンケンって気安く何回も僕のことを呼ぶさくらの声が。


過ぎた人生で取り戻したいのはあなたとのことだけ、後悔しているものはそれだけだよ。

その自分の意識はいつになってもぬぐい切れない。

だけどもうこれで終わりにしたい。思い出は美化されてゆくばかり。

実際はすれ違いだとか失望だとか、もっと生々しいものだったのに。

もっと痛々しく、ずっと苦しいものだったのに。

あの頃の宝物は砕け散ってしまった。

結局あなたを救えたかどうかは分からない。

確かにあなたの太陽で僕は救われたけれど。


さぁ、もう帰ろう。公園を過ぎれば家の灯りは近い。

僕はようやく歩き出す。

ただ最後に、落ち着く居場所を求めて彷徨っている美しい幻想を今、この言葉で――。


さくら。この声は届いているのかな。

何度でもあなたに言いたい。

ありがとう。愛させてくれて、本当にありがとう。


愛している。今でも、これからも永遠に愛している。

その愛は日中には見えない月のようで、僕の今の生活に影を落とすことはない。

噴水の水面にゆれる月明かりは違う次元にあって、静かに変わらぬ愛をたたえている。

一度あなたのことを深く愛した、この優しい気持ちは僕から消えることはないだろう。


お互いどんな運命であろうとも、愛し合った心だけは人生の本物。

あなたに何度でも伝えたい。

ありがとう。あなたに、ありがとう。



「あなたにありがとう」 完



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