小説「あなたにありがとう」1話

あなたにありがとう




彼女が僕を残してカナダに旅立った時のことは覚えている。


最後に見たのは空港でコートを抱えている姿だった。

まだ東京では見かけないコートも、向こうではもう必要とされている季節だったのだろう。

どうしてさくらが突然カナダに行こうとしたのかが分からない。

それも、僕と付き合ったままで日本を離れたいと、やけに明るい口調で彼女は言った。

仕事も辞めてしまい、ワーキングホリデーのビザを自分で取りに行った彼女。

僕にさえそれを告げてくれたのは出発の二週間前だった。


こんな気まぐれは珍しいことじゃない。

さくらは好奇心の固まりのような女性だった。

ある時は旅行の学校に通ったと思ったら太極拳に目覚め、

ハングルを習っては陶芸を始め、子供のボランティアから水泳まで楽しそうにこなす。

その忙しい合間を縫って一人で海外旅行に出たし、

いつ勉強したのか旅行の国家資格だってちゃんと合格している。

それらは一見整合性がないように見えていても、さくらだから不思議と調和があった。


男だってそうだ。僕が二人目の彼氏だという。

お互い経験が浅いほうだ。

僕のようなつまらない男では満足できないのか、社会に出てある程度世間が分かってくるようになると

彼女は他の男たちを知りたがるようになった。

だから僕は随分と悩まされた。

取引先の人、あなたの知らない男性と浮気したのよ、

とさくらから打ち明けられた時の僕の混乱は酷かった。

男の人も色々知りたいと思ったから実は他の男の人たちとの飲み会も行ってた。

でももう興味ないよ。ごめんね、ケン。ケンだけに戻るから。

さくらは平然とそう言ってのけた。


電話を切ってからいてもたってもいられず、僕は夜の公園を夢遊病のように歩き回った。

それもまた、ある種病的に強い彼女の興味心からくる一時の脱線だと分かっていても、

軌道を全く乱された僕の小さな心はなかなか平静に返ることができず、

何時間も、何時間も、嫉妬に狂って暗闇を歩き続けた。

本当にあれはひどい傷だった。


さくらとは楽しい時間もたくさん過ごしてきたが、喧嘩は絶えなかったし、すれ違いも多い。

決して順調には付き合ってきていない。

なんでもそうだ。

興味さえ向けばなんでも自分から首を突っ込んで、

痛い目にあうことの方が多いのにどんどん未知の世界に向かってゆく。

僕はそんな彼女を本当に病気なんじゃないかと思ったことがある。

でも、それがさくらという人間だった。

自分にないものを持っているからか、そんな彼女に強くひきつけられている僕がいた。


だが、人生で一番やりたい「何か」がまだ見つからず、

彼女はその「何か」をいつも探していた。

僕はそんなさくらに出来るだけ色々なものを見せてあげようと、

たくさんのことを二人で体験しに出かけた。

行き先を告げないままさくらを連れ出すのが僕のお気に入りだった。

毎回びっくり企画を立てて、彼女がどんな反応をするのかを僕はささやかな楽しみにしていた。


高原のパラグライダーを覚えている。湖での釣りを忘れない。

車の運転だって、イタリア料理教室だって二人だった。

緊張しながらも叩いたJAZZ BARのドア。

唯一意外だって言われた浅草の落語。

スキューバーダイビングにクレー射撃。

キャンプとバーベキュー。漫画喫茶。

プロレス観戦。プラネタリウム。あぁ、数えれば切りがない。


刺激だらけの未知の世界。

そこで戸惑うだけの僕とは対照的に、さくらはいつも笑っていた。

それもいつも満面の笑みで、いつも楽しそうに。決して僕にはない眩しい光。

太陽のような彼女の好奇心の前では僕は薄いかげろう。

二人を愛情の線が結んでいたとしても陰と陽の存在ははっきりしていた。





僕にはさくらしかいない。

ごく平凡な人間の僕にとってその「何か」はさくらだった。

カナダ行きを阻止するもなにも、僕と別れるのでなければ

彼女のやりたいことを邪魔する意思は僕にはなかった。

ただ一緒にいてくれればいい。そう思っていた。

何のとりえもない僕だが、彼女のような感動に豊かな女性を

側に引き止めていることの満足感だけが僕のプライドだった。

あれから二度と浮気されることもなかった。

世界に様々な男がいるなかで、それでも結局僕にしか彼女を抑えられない、

という自負がその頃の僕のちっぽけな心を支えていたのだった。


バンクーバーからは気まぐれにエアメールが届いた。

(ハロー、ケン。バンクーバーはもう本格的な冬だよ。

この前ウィスラーっていう有名なスキー場に行ってきたから写真見てね。

寒いよ〜ケン。だってマイナス二十度だよ、想像できる?

でも、山の上から滑ってくると雪の山並みを下に見ながらの素敵な景色。

ケン、写真上手く撮れてるでしょ?

バンクーバー市内からも雪が積もった山がはっきり見えるんだ。

毎日見てると雪が生きてるみたいに増えてゆくのが分かるんだよ。

ケン、こんなきれいな街ってないよ。

ねぇ、私、雪にこんなにもドラマがあるって全然知らなかった!

ケン、雪ってスゴイんだよ!ドラマのかたまり!)

仕事帰りにポストをチェックするのを僕がどれだけ

楽しみにしていたことか彼女は知らないだろう。

でも僕が書く返事ときたらなんてつまらないものだったことか。


(さくら様。お元気ですか?こっちはあまり変わっていません。

あっ、ウチの近くのコンビニ、やっと改装工事終わったよ。

でも中あんまり変わってなかった。

随分長く改装してたのになんだっただろうねー。見取り図書きます)

あぁ、情けない。手紙ですら僕はこんなことしか書けないのか。

何かもっと伝えたいことがあるはずなのに。

心配しているよ、早く逢いたいって書きたいはずなのに。

書かなくちゃいけないはずなのに。


結局、彼女はカナダ行きの本当の理由を明かそうとはしなかった。

ある時は英語を学びたかったのと言い、

ある時はカナダの大自然にしばらく触れたかったのと言った。

ワーキングホリデーのビザは一年までしかない。

きっと彼女が戻ってきてくれると信じながら、僕は気長に待つことにした。

(――写真見てよ、ケン。ほら、バイトしているお店。

観光客向けのDuty Freeの店だよ。

ワーホリにありがちでしょ?

ケン、左端が店長のリチャードさん。

店長とかいっても、ただの酒飲みのオヤジなんだけどね。

その隣のマリオは彼女と同棲中なんだって!

朝いっっっつも遅刻するから多分すぐクビになる。

で、私の隣の女の子たちがニコールとリンダにパティ。

ケン、私いつも彼女たちと過ごしているんだよ。

彼女たちこう見えてもアウトドア派。

冬はスキーばっかりだったけど、これから夏になったらカヤックとかキャンプしようって!

楽しみ!こっち、結構面白いよ、ケン)


次の季節にはこんな手紙が来た。

(ケン〜。近所の子供たちに好かれちゃって大変〜。

毎日遊んで〜って来るんだよ。

まだ水冷たいのに水かけ遊びが大好きなコたちでね〜。

すっかり近所中の子供たちと友達になっちゃった。

もう〜子供の英語ばっかり頭に入ってる〜。

あとはマウンテンバイクに乗って色々探検してるよ〜。

ケン、この写真はすっごい大きなつり橋。

あとゴンドラに乗ってバンクーバーの街並みを一望した時の写真。

毎日が発見で楽しいよ、ケン!)


春を迎えたバンクーバーで彼女は上手くやっているようだった。

エアメールにはいつも楽しそうな写真が同封してあって、

彼女の笑顔は僕の大好きな彼女のままだったから、僕もすっかり安心していた。

何度かは電話もきた。

さくらがいなくなってからすっかり鳴ることをやめた電話も、月に幾度かだけは輝いて見えた。


僕はというと、仕事ぐらいしかすることもなく、新鮮味のない東京の暮らしに終始していた。

海の向こうでさくらが今日一日というステージをどんな素敵な色で過ごしたのかと考えるだけで、

つまらない僕の一日にもわずかにそのカケラが落ちてくる、そんな気がしていた。

さくらが帰ってきたらどんな所に連れて行ってあげよう。

今のうちにお金を貯めて、しっかり仕事を覚えておこう。

本気で僕はそう思った。

しばらく彼女からのエアメールが届かない時があっても全然心配はしていなかった。

少なくとも、あの一本の電話が入るまでは――。



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