小説「汗と無力感」2話

グランドキャニオン トレイル




僕無力感漂う生活のなか、ある時アメリカのグランドキャニオン国立公園のTV番組を見た。

人気俳優がラバに乗ってグランドキャニオンの谷底までおりてゆく冒険番組だ。

僕は夢中になっていた。

グランドキャニオンの上からの景色はよくTVや雑誌でみかけるものだったが、

谷底までおりてゆくと景色は一変し、まるで未知の世界になった。

緑豊かな大峡谷だが、その下には砂漠に近い荒野があった。

大袈裟に紹介しようとする俳優は気に入らなかったが、

僕はその谷底の景色に驚愕し、憧れ、いつしか夢見るようになっていた。


僕もあの場所に行きたい。

あのグランドキャニオンの谷底を歩いてみたい。

そんな想いに捉われていた。

自分でも理解できない何かが突然僕の身体に乗り移り、

そんな気持ちにかきたてたかのようだった。

あの砂漠のような荒野が凄かったからだ。

グランドキャニオンという独特の世界の中に、

もうひとつ全く別の大きな世界があるとは想像もしていなかった。





日に日に憧れは募る。しかし、元々が無謀な計画であった。

そんな大金はバイト代から捻出できないし、英語なんて全然しゃべれない。

受験勉強のひとつにそれらしいものがあったはずなのだが、

身についていないところをみるとあれは別物なのだろう。

十代の僕の行動範囲ではないものばかりだった。

そういう大冒険だったから、逆に僕は強く憧れたのだろう。

何もない僕だったからこそ、それを恐いと判断することすらできなかったのだ。


その夏休み。僕はアメリカ行きの飛行機に乗っていた。

親から借金をして、夏休みのバイトも断り、僕はひとりグランドキャニオンへと向かったのだった。

それはやはり自分の能力以上の冒険だと想った。

ろくに英語もしゃべれず、十分とはいえない旅費を工面しながらバスを乗り継ぐ。

言葉が分からないのは痛手だった。

人に聞けないし、案内を見ても絵や数字しか分からない。

闇の中を手探り状態で這うような初めての経験。

それでも僕は不思議とそれを己の無力さのひとつだと

否定的に捉えずに、楽しいと思っていたのだ。


この最高の壁を前にして、僕はあらゆる方法を尽くして

人とのコミュニケーションを取ろうとした。

身振り素振りに笑顔を交えればなんとかなった。

形振り構わず人に尋ね、人を頼り、その結果として人の好意に触れた。

それは、日本にいるときの冷めた僕では決して有り得ないことだった。

僕は堂々とグランドキャニオンに挑戦を挑んだ。

いつかの俳優のようにラバの背中に乗って下るお気楽ツアーではない。

大荷物を背負い、己の両足だけで崖下まで往復することを選んだ。

朝から歩き出し、五時間かけて谷底の宿を目指す。

その途中の道は、TVで見た以上に素晴らしかった。

赤土の崖道を降りきると、そこからは本当に砂漠が存在していた。

目を疑う光景。

所々にオアシスがあるが、他は見事に荒野だ。

砂漠の砂はないのだが、それは砂漠と呼ぶに相応しい不毛の地だった。


吹き付ける熱風に汗をとめどなく流しながらひたすら歩き続ける。

すれ違う人は少ない。

それもそうだろう、夏の暑さが荒野によって容赦なく増幅されている。

人が歩く環境ではない。

暑い。身体中を汗が伝う。

こんな死の大地、日中の砂漠を歩いているのに近い。

命の水。

重くても大量に持ってきて良かった。

水を飲む。すると、その分だけ体から汗が出ていくのを感じる。

全身が汗に洗われているかのようだ。

それがなんとも気持ち良い。

歩き続けること五時間、僕はようやくファントムランチという宿に到着した。

汗まみれの身体。

疲れというよりも、肉体を削り取られたかのような鈍さがあった。

だからこの時の達成感は格別だった。

正に地獄を通り抜けてたどり着いた小天国。

全身でガッツポーズを決めた。



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