小説「小さな月」2話

美しい一瞬の夢




……また世界が変わっていました。

白い砂漠は紅い大地へと姿をうつしていたのです。

一日に疲れたはずの太陽が信じられないぐらいに燃えたぎる紅い陽射しを強烈に放っています。

それを受けた白い砂漠が紅い大地へと変わっているのです。

危ないぐらいの美しさです。妖しい、あまりに妖しい禁断の美ではありませんか。

急激に寒くなってきました、このままこの妖しい美に心を奪われていれば

夜の寒さと闇の餌食になってしまうかもしれません。

今夜も月灯りを期待できるとは限りません。

さっきから太陽が沈むあの方向に小さな影となって何かが見えています。

旅人は手遅れになる前に先を急ぐことにしました。


全てを闇が支配してしまう前に何とかその影にたどり着くことができました。

この一面の白い砂漠に唯一の例外の異なった景色がそこにありました。

低い岩山です、しかも白ではありません。

大きな口を開いていて、広く深い洞窟の入り口にそれがなっています。

不毛の大地を彷徨ってきた旅人は吸い込まれるように中へ入って行きます。

口から差し込まれる鈍い灯りだけを頼りにして足元の危険なこの異次元空間へ下って行きます。

底のほうは常時過ごしやすい気温に保たれていて、ある程度まで下がると灯りが完全に隠れてしまいました。

夜です、洞窟の中では他の何よりも人を圧迫する恐怖が潜んでいます。





――それは完全な沈黙と闇です。

精神が丈夫ではない人ほどこれに耐えられることのできる限度は狭くなります。

いや、どんなに強い精神力を持つ人でも人間である限りはそう長時間絶えきれるものではありません。

この沈黙と闇に囲まれてあまりに考え込んでいては確実に精神障害をきたしてしまうことでしょう。

この恐怖の雰囲気は人の心を狂わせてしまう力を持っています、

消耗しきった心と体を素早く眠りにつかせてしまうのが得策です。

そうでなければ深い沈黙と闇に殺されてしまいます。

目を閉じればまだ自分を誤魔化すことができます。

さぁ、急いでこの恐怖から逃れましょう。


……薄灯りだけを視覚がとらえていれば目の覚めてからもまだゆめの続きのようです。

――なんとかあの恐怖の責めからは逃れられたようです、

頭上の口から断片的な薄灯りがもれてきています。

何故かあれ程に感じていた飢えや渇きも目覚めたらすっかり体が忘れてしまったようです、

何か不思議な力がこの洞窟に働いているのでしょうか。


眼前のはるか遠くに別の光が射し込んでいるのが見えますね。

昨夜は入り口からだいぶ下りました。

あの光は何かまた別の世界に旅人を誘うように思われて仕方ありません、

手さぐりであの光のもれる場所まで進みましょう。

この洞窟は単なるトンネルというわけではないようです、

入ってきた口から幾つもの穴がいたる方向に分かれていましたから。

もっともっと深く広い洞窟かもしれなく、この道が最短距離のトンネルかもしれませんね。

やけに湿った土っぽい匂いが鼻をつきます。

先を求めて動く手に触れるのは冷たく濡れた鍾乳石でしょうか。

牛歩すること数時間(多分そのくらい経ったのだと思います)、

ようやく問題の出口の下まで着くことができました。

そしてこの先の世界に期待と絶望がかかります。


――これは?!――海?――海に囲まれた離れ島?

――いや、ゆめの続きではありません、いつもの世界です。

――しかし、これはまた、何という残酷な世界なのでしょう――。


小さな島は岩山のようになっており、旅人はそこにある出口から抜け出してきました。

目標の小さな月がすぐそこに見えています――しかし――これは余りに残酷です、

この島の四方の崖の下は全て海に、見るからに流れの速い海流によって完璧なまでに進路を閉ざされているのです!

これでは海を泳いで小さな月の見えるあの陸地に渡ることなど絶対に不可能です。

わずか数qほどの距離なのに!もう手の届きそうなところに自由が見えているのに!

――決して超えられぬ壁に遮られて――

これには第三者たる私たちも激しい怒りをおぼえます!

――余りの残酷さに対して。旅人が望むもの全てが目の前に

――完璧な壁に遮られて――これこそが究極の罪罰、

この島は最も許し難い重罪を犯した人間を入れる刑務所のようです。

ほらごらんなさい、旅人は膝をついてしまいました。――余りの残酷さゆえに。


旅人は寝っころがって小さな月をぼんやり眺めていました。

再び何かをする気力は失いました。

同時に空腹と喉の渇きを改めて感じだし、それが絶望感をより一層深めることとなりました。

こんな残酷な場所で私は死ぬのだ――

旅人のそんな悲しいつぶやきが聞こえてくるようです。


あきらめた時点で考えは楽観的になっていました。

食糧と水の確認をここで野たれ死ぬ者は頭で、まだ戻ることができる可能性がある者は目で済ませ、

まぁ、とりあえず今夜はここで過ごすしかない、と決めることでしょう。

また、あれ程の海流に身を投じて泳ぎきろうとする無謀な旅人はまずあり得ません。

この島までまがいなりにもたどりついた者ならばこの一見穏やかそうな海流の下には水という

形のないものならではの絶大な威力を持った流れがある――ということぐらいは当然わかるはずなのです。

第一、そんなことにも気付かぬ人間にはここまでたどりつける資格がありませんから。


もうすぐ彼方の水平線の下に落ちこんでゆく太陽。

短い、とも長い、とも言えるようなサイクル。

今日一日に栄華を誇り、そして今日一日に失権してゆくそれ。

――決して永遠には続かない「栄光」。

自分の躍動の場を得て動きを始める次の台頭者。

だが、そのまま消えてゆく訳にはいかない、疲れ切った者も、過去の瓦礫には。

――思ってはくれるな、「醜い」とはそれを。





夕闇がキャンバスに少しづつ自分の色を忍び込ませてきました。

旅人は相変わらず近くて果てしなく遠い、小さな月をうつろな目でながめていました。

洞窟の出口からいくらもまだ離れていませんし、

何もないこの離れ島を改めて確認してみる気にもならないのでした。

――別の道があるのだろうか──旅人がそう考え始めたとき、

背後の洞窟の出口の方から何か、異様な気配がしてきたのです。

ただ事ではない、と直感して振り向いた旅人が見たもの、それは──黒い蝶の群れ?──でしょうか?!


あの洞窟の出口から黒い蝶らしい小さな生き物が大量に突然、

一気に黒い河のような線を描いて翔び出てきたのです!

これは何という――?!

この旅で驚き慣れした旅人も再び強烈な戸惑いをみせてしまいました。

――数が増えてきました!後から後から止まりません!

何なのでしょう?!

あぁ、鈍い白色に染まっいた空のキャンバスに黒い線が引かれてゆきます、

そしてその行く先は――小さな月!!


止まらない!凄い数です、数が減らない、黒い河を成してゆきます、

もう先頭部分は海流のはるか上を、小さな月を目指してだいぶ進んでいます!

凄い数です、30万匹は下りません、なおも洞窟からは次々に翔び立っています――。

あっ!!これは!――これは黒い蝶なんかではありません!

――これは蝙蝠ではありませんか!

蝙蝠の大群が空に河を流しているのです、小さな月へと続く不思議な橋を渡しているのです!

――これは、洞窟の闇にひそむ彼らの栄光の時、何とも美しい一瞬のゆめではありませんか――。


旅人は立ち上がりました。

今や黒い橋は完璧な壁を飛び越え、あの小さな月へと旅人を誘っています。

確かな足どりで橋を歩き出した旅人の表情は対照的に夢見心地なものです。

旅人は空の橋を歩き、海を渡る――行く先はあの小さな月――。


きっと自分でもその橋を歩いた感触はなかったことでしょう。

すでに暗闇一面となった空を小さな月の灯りに向かって歩いてゆくのです。

黒い橋は旅人に天空を翔んでいるような錯覚をおこさせます。

既に現実からはかけ離れた世界がそこにあります。

世界を超越してしまった足どりが思考までをもゆめのなかに溶けこませてゆき瞳を惑わしてゆきます。

そして――逆らい難い魔力に意識は本人を離れてゆくのです。



戻る←   →進む



トップページ小説トップ小さな月トップ








Copyright (C) 1996 - Ken Box. All Rights Reserved.