小説「小さな月」3話

深い心の傷




またいつの間にか眠りに落ちていたようです、旅人は朝日に揺り起こされました。

――これは!昨晩のことは幻ではなかったのです!

小さな月がもうすぐそこに見えています!


残るは目の前にある山を登り、その頂上に座っているような小さな月によじ上がり、一番上まで行くだけです。

今日一日で到達できそうです、帰りは――着けば絶対に何とかなる――そんな確信を感じるのです。

最後の活力には目を見張るものがありますね、さぁ、旅人は新たな決意を瞳に歩き出しましたよ。


緑色に映える理想的な川、かなりの落差を持つ細長い滝には虹がかかり、

青い鳥が不思議にも旅人の道を先導します。

これまでの長旅で旅人の顔や肌は真っ黒になり、

純粋なこの色は同じく純粋な色である白の小さな月に敬意を込めた調和がとれています。

旅人は山道を5時間ほど歩き登り、ついには小さな月の真下まで来ることができるのです。


旅人はそこで恋をした。その場所から見渡す峡谷の景色に恋をした。

先導されて着いたのはあの島からは見えなかった小さな月の裏手だった。

裏側には遠くまで深い森をまとった山々が続き、その間を青白い水の流れが縫っていた。

この急流に削られた山肌は芸術家が色を塗りたくったような美しいピンク色をしていた。

それだけでも美しい。

だが、旅人が恋をしたのは遠く、果てしない空間にだった。


旅人は恋をした。何時間もその果てしない空間を見つめていた。

優しく包んでくれる「母」なる広い広い空間、そして信じられないくらいに存在する清潔な美しさに恋をしたのだ。

心の穏やかさを取り戻し、忘れかけていた心の置き場を再び見つけた。

誰もが持っている淡い恋の記憶――懐かしい感情に旅人の体の力は抜けていった。

……これはあの恋の香り――。


恋をした旅人はいつまでもその場所から離れることができませんでした。

しかし冷徹な現実が旅人を輝く思い出から切り離したのでしょう、

冷めきった瞳をのぞかせて旅人はその峡谷に背を向けました。

それでこそ、それでこそ小さな月に恥ずかしくないだけの人間――なの――でしょう……か……。





あとは急斜面な岩肌を頂上から垂れ下がっている鉄ワイヤーのロープをたどって登るだけです。

丸い表面を固い岩に覆われたその小さな月の半面を頂上まで果てしなく上がります。

最後の試練は「克己」――過酷な肉体運動であり、自分自身に打ち勝つことができるかどうかの再確認です。

小さな月は意識してその個人の能力限界ギリギリまでやろうとすれば

絶対にやり遂げられるぶんの障害を用意しているのです。


……こうした苦難の道のりを超えた旅人たちだけに小さな月へ挑む資格が与えられたのです。


まず初めに心の傷を持たない男が月の表面を踏んだ。

道の途中で彼はこの小さな月の半面である切りたった崖の姿を認めていた。

極度の疲労も忘れて地面の果て、この絶壁まで歩き通し、その漆黒の闇の空間を見つめていた。

――こんな不思議な地形があるのか――と彼は声をもらした。

彼にはそれがただの果てしない深さを持つ切りたった崖にしか見えなかったのだ。

そう、彼がそれを心の傷と気付くはずはないのだ。

その痛みと恐ろしさがわからぬ彼が次に取る行動はひとつしかない。

――彼はその切りたった絶壁を調べてみよう、と崖を下り始めたのだ。


この男は気付かなかった。

下も見えなく、垂直に落ちてゆくその崖を他と同じ単なる自然美だと思ったのだ。

――しかし、それはただの壁ではなく、

小さな月が二万年もの歳月を生きるなかで負った深い、深い心の傷なのだ。

悟れ、旅人よ、お前はその傷に無造作に触れようとしているのだ

――それを知らぬでは決して許されないことなのだぞ――。


男がその垂直に削れた壁の表面へ触れようと手を伸ばしたその瞬間、当然予想されるべき事態がおきた。

男は納得ができぬ、といった表情のまま、垂直に消える闇へと堕ちていった。

二度と自分の足で大地を踏むことなど叶わないであろう死の世界へ。

傷に触れようとした腕を伸ばしたままで。

――何故?――と男は唇に言葉を残し、闇へと堕ちていった。


次に心の傷から逃げ出した男が月の表面を踏んだ。

彼もまたその崖の姿をすでに認めており、見えない力に引きずり込まれるように、

心のどこかがその崖を求めるかのようにそれに近付いていった。

――これは、どこかで――彼はその崖と闇を見つめながら考え込んでいた。

そして次の瞬間、背中に寒気を、心に古い痛みを感じた。

そう、それは彼が昔、捨ててしまった心の傷だったのだ。

彼はそれに気付き、恐怖のあまり立ち尽くした。


――しかし自分の傷を憎み、逃げ出してしまった暗い過去を持つ彼にとって

他人の傷はただ無責任に嘲るべき対象でしかなかった。

自分の弱さへ仕返しをするように彼は足元に積み重なっている岩石を

崖の底へと狂ったように蹴落とし始めた。

そんなことでは怒りも充分に収まらない男は崖のそばに敷きつまった岩石のひとつに立ち、

ありとあらゆる罵詈雑言を闇の空間に、深くは自信のいらだちに向け言い放った。

……そして、醜悪なまでの自虐さをこめて下の闇に唾したとき、この男も死を宣告された。


彼は気付かなかった。

心の崖のそばにある崩れ落ちそうな岩石、それは痛みを秘めた心の岩だったのだ。

その心の岩を崖に落とせばどうなるのか――痛みを負った岩なのだ、

それを心の傷の崖に無責任に落とすことは、その傷に触れることも同じ。

そしてそれは死を意味する。

男はまだも悪態をつきながら――きっと彼もどこかでこうなることを意識していたのだろう

――ただ自分自身へのいらだちだけを増幅させて深い痛みの闇へ堕ちていった。


小さな月はこの二人の愚かな死に様を冷たい沈黙のうちに見つめていました。

そして恐ろしく無感情な口調のつぶやきが聞こえてきました。


――この傷に触れることはできない。

触れないまでも心の岩を下手に崩せば死、傷に触れようとすれば即、死だ――。


そう、こうしてこの小さな月にたどりついた旅人の大部分はこの二人とよく似たことをして、死んでいったのでした。





最後に心の傷を乗り超えた男が月の表面を踏んだ。

彼にはその闇が痛みからくるものであることをここまで来る間に深く、理解していた。

自然と崖まで歩き、傷だらけの崖とはすこし距離をあけた。

あれ程までの心の傷、彼にはこの小さな月が下手な情けは拒むタイプであることが明白だった。

男はそれなら、と相手の痛みを認め、自分の痛みをも全てさらけだした。

深く相手の傷の原因を聞こうともせず、彼は痛みの闇と心で無言の対話を持ち始めた。


この永遠の一瞬に一人の男と小さな月の間に奇妙な理解が生じた。

一人の人間とひとつの小さな月との理解――それはあの町の人々のように、

自分を超え痛みと哀しみを背負った分だけ許される栄光なのだ。


今、小さな月の瞳から涙がこぼれた。男もまた不意に涙を落としていた。

――涙なんていうものがこの私にまだ残っていたとは

――男は揺らぐ激情におちいっていた。

わかるのだ、この小さな月の二万年の傷が、痛みが。

そして小さな月も自分の痛みをわかってくれている、分かち合えている。

日頃、慎み深い男ではあったが彼が栄光を全身に受けるとき、それをもう隠したりはしない。

彼のこれまで生きてきたことの証しがこの瞬間に確信を伴ったのだ。

孤独な思い出が時の流れの恐ろしさからついに解放されたのだ。


男は優しく穏やかな風に小さな月の声を聞いた。

――二万年を生きるなかで深い心の傷も負った。

時の流れに全てを変えられてゆくとしてももうこのままでいい。

痛みさえ愛しい。私たちは今でもあるべき自分の姿へ歩いているのだ。

さぁ、このまま永遠を生きよう――。


かくして偽りと真実は裁かれ、男は人生という栄光を手にして生きることを許されたという。



「小さな月」 完



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