小説「知足の人」

知足の人




“わたしはただ、今自分が満ち足りているのを知っている”


田んぼの端に腰を下ろし、そっとまぶたを閉じてみる。

何もいらない。必要なものはみんな集まってきてくれたじゃないか。

何もいらない。

欲を言えばわたしをおおう木陰がしばらくそこにいてくれれば、なおいいな。


世の中には、満たされない人たちがいる。

人は、欲望に突き動かされる醜い生き物。

わたしは幾度あれに襲われたか、数えようとしても数にならない。

わたしがおかしい?

絶望するにはわたしは恵まれすぎていて、甘んじて受け入れるには欲望は醜すぎるから。


“わたしはただ、今自分が満ち足りているのを知っている”


この言葉がすべて。

繰り返しつぶやいて、わたしは田んぼの風に吹かれている。



ある時はわたしを、物欲が襲った。

海外の貧しい国、わたしより「持たない」人たちが、わたしのお釣りを誤魔化そうとする。


でもいいだろう。

わたしにとって小額のお金が彼らの利益になるならば譲ってあげるのもわたしの務めだ。

考えてみる。優しさ、余裕があれば微笑の中にそんな小事は溶けてゆくさ。

だからわたしは受け流す。

もう手に入れているから。他のものまで欲しがる必要はない。


“わたしはただ、今自分が満ち足りているのを知っている”


欲望に直面した時、そこには苦しみ、葛藤はある。

でも満ち足りているわたしが欲望に負けることはない。



ある時はわたしを、嫉妬が襲った。

昔愛し合った人が、他の男にもて遊ばれている。

そう知った時、わたしの体内を凶暴なものが駆け巡った。


ドス黒い血、思考の沸騰、怒号の肉体。抱かれている、汚されている。

今更ながらの嫉妬がわたしの指先までもを染めた。


もう今はわたしのものじゃない人に何故嫉妬するのか。

守ることを放棄したわたしなのに、あまりに醜いその心のうち。


“わたしはただ、今自分が満ち足りているのを知っている”


身勝手は拭い去れない人の性。


あやうく受け流すことに目を背けそうになるのを留め、わたしは我に返る。


別の人を手に入れているわたしには嫉妬する資格もない。

満ち足りているわたしは、ただ受け流すだけだ。



ある時はわたしを、劣等感が襲った。


人見知りすることで団体行動の輪の中に上手く入れない。

孤独を感じて、他人の談笑をうらやましく思う。


“わたしはただ、今自分が満ち足りているのを知っている”


それを招いているのが自分の手抜きだと分かった時、幻は一息に消え去った。

満ち足りた人ならば明るく他人に声をかけられるし、明るく会話を展開することも叶う。

それが欲望を封じ込める唯一の方法だと、わたしは孤独の中に知った。



ある時はわたしを、恨みが襲った。


当然の出世を妨げられたことが心に大きく巣食って離れない。

それは、妨げた人を恨む恐ろしい感情に化け、わたしの心を醜いものにした。

他の何は許せても、譲れないものはある。

欲望がとぐろを巻いて恨み節を深く募らせていた。


出張のついでに京都の竜安寺を訪れた時のこと、

わたしは石庭を眺めて心を落ち着かそうと試みていた。





禅の教えに答えはないから、ありのまま感じたことが自分なりの答え。

親子の虎が流れる川を渡っている石庭の姿、知足のつくばいの文字の羅列にも、

恨みを知った己の心は平穏を感じるべくもない。


それが時間の流れという万能の薬を飲んだ後に思い返すとどうだろう。

許せないものは許せない。

でもそもそも満ち足りたわたしの人生には微々たる毒程度なのだから、

受け流すこともわたしにはできた。


竜安寺の知足のつくばいには「口」を真ん中に「吾唯足知」と洒落のような文字。

心の貧しい人は自分が満足することを知らない。

心の豊かな人は自分が満足することを知っている。

禅はそう教えてくれている。


満ち足りた状態でつくばい読み返してみると、

わたしにははっきりと言葉が浮かび上がってくるのが見えるではないか。


“わたしはただ、今自分が満ち足りているのを知っている”


五体満足で、才能にも恵まれ、家族がいて、暮らしに困っていない。

足りないものは言い出せばキリがないが、おおむねわたしは順調だ。

そんな文字が心の目で確認できるわたしは足りることを知っている。

だから恨みも受け流すことができた。わたしは恵まれた、知足の人。







ある時はわたしを、性欲が襲った。


絶妙なタイミングですれ違った好みのタイプの人。

そこは海外で、あまり一人歩きはしたくないところだから

追って声をかければわずかでも面識のある者同士、二人で街を歩けたことだろう。


会議の合間の時間つぶし、春の陽射しに恋人気取りのRiverwalkをしたいかい?

したくないわけがない。

後ろ姿を眺めるわたしは、性欲に動かされた一匹の醜い鬼。


“わたしはただ、今自分が満ち足りているのを知っている”


その言葉をつぶやいてみる。

愛する妻が、家族がいるわたしが他に何を望むのか。

美しいものは手を触れないからこそ美しいときがある。

その美だけを愛で、わたしはわたしの道を歩こう。

目を閉じ、その人と反対方向にわたしは足を進めた。


ある時わたしを襲った不幸な出来事は、実に長引いていた。


わたしの不在中に誰かが家へ押し入り、

子育て疲れで寝ていた妻が、そして生まれて半年の子供が殺された。


“わたしはただ、今自分が満ち足りているのを知っている”


一年もの時間の後に、犯人は分かって物証も出た。

本人の自供も状況と合っていて、まず間違いないところが見えてきた。


全く知らない人。

ただの偶然で我が家に侵入し、わたしの幸せを一方的に奪っていった。

醜い欲望だけに動かされた人間が犯した一瞬の永遠。


“わたしはただ、今自分が満ち足りているのを知っている”


時は来た。わたしはこれから迷うことなく彼を殺しに行く。

司法に頼るのも良いが、判決が出るのは十年後だろう。

暴力的なところなど微塵も見せなかったわたしだから、私復に走るなど誰が予想できるだろう。

取調べの場で、裁判の場で一瞬の隙を決して見逃すことなく殺してみせる。


“わたしはただ、今自分が満ち足りているのを知っている”


人を殺した側の人権保護などクソ食らえだ。弁護なんていらない。

最高裁の判決が出るまでこれからどれだけの時間がかかる?

何ら権利を訴えることなく一方的に殺された妻の、子の悲しみを優先させずに、

どこに正義があると言えるのか。


人生を賭けて人を愛し、子供を育て、家庭を築き上げた。

社会のルールを逸脱することなかった善良な一市民だよ、わたしたちは。


何もいらない。

集まってきてくれた必要なものが全て奪われてしまった今、

わたしにはもう何もないのだから。

殺した人を殺して解決しよう。その後のわたしの人生はいらない。

これは事故だ、誰もが望まなかった、なんて不幸な事故。

殺した時点で幕が引かれるだろうから、わたしへの司法適用なんて何の意味もないこと。

時間がかかるし、

たくさんの人へ本来不要な仕事を増やしてしまうのは目に見えているから

自らすぐに死を選ぼうと思っている。


田んぼの畦道を歩けば、感じる小さな動植物たちの生、生、生。

他人の生を奪うのは容易いこと、でもそれってどれだけ重いことだろう。


“わたしはただ、今自分が満ち足りているのを知っている”


何もいらない。

人を突き動かす醜い欲望が暴れてしまった後は、解決できない負の連鎖が残るだけなんだ。



「知足の人」 完



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