小説「白馬風樹」3話

バカな男




大学4年生の私を待ち構えていた就職活動のため、

忙しく毎日を過ごしていましたが、やはり心のうちはすっきりしないままでした。

ようやく内定を貰えたので、冬休みは白馬に行こうと思いましたが、

その次の春休みまではバイトをするつもりもなかったので、

最後の白馬のリゾートバイトを楽しもうという気持ちに切り替わっていました。

12月下旬から白馬に入り、私はベテランのバイトらしくテキパキと仕事をこなしました。

今回はさすがに恵子さんが来ることはまったく期待していなかったので、

前回の夏の時のようにテンションが下がったりもせず、

普段通りにバイトをこなして最後まで楽しもうとしていたのです。





しかし、1月に入って、予想外のことが起きたのです。


その日はホテルの1階の喫茶店で店番をしていました。

スキーシーズンですから朝夕は混み合いますが、

みんなが滑っている日中は案外ヒマになる時間帯があります。

お客さんがゼロになったので、一人で店番をして洗い物を片付けながら、

私は良く晴れた外の白銀の照り返しを眺めていました。


スキーウェアを来た二人の女性がちょうどホテルに入ってきたところでした。

フロントで何かを尋ね、一人はフロントのソファーに座り、

もう一人がこちらに歩いてきます。

お客さんだと思って姿勢を正し、その人が近づいてくるのを眺めていると、

次第にその女性の顔が分かる距離になりました。


―――恵子さん?!


心臓が飛び出しそうになりました、いいえ、本当に飛び出たかのようでした。

「ひさしぶりやねぇ」と言って、以前と違ってソバージュにした髪を揺らして、

彼女はカウンターに座り、カフェオーレを注文してきました。


何を話していいのか、突然のこと過ぎて、私には言葉もありません。

「ど、どないしたん?」

「見ての通り、スキーに来たんやん」

「なんて白馬に?」

「あかんのかいな?」

「い、いや」


カフェオーレを作りながら、「去年の夏はなぜ来なかったの?」と

聞きたい思いに駆られましたが、きっと彼女の方から説明があると思って、

こちらからは話さずにいました。

困ったのは自分が今仕事中ということで、彼女をお客様と思うと

面と向って「好きなんだ!」と言うわけにもいかず、

「今、何してるの?」と聞くのが精一杯でした。

彼女は日本舞踏や大学のことを話してくれましたが、

私が聞きたい彼氏がいるかどうかとか、私のことをどう思っているのかとか、

去年の夏のことなどには触れてきません。

それは私を試しているのかな、とも思いましたが、

私も今までと同じように一歩踏み込んだ質問ができないままでした。


風の知らせを聞きつけてか、千恵さんがフロント横の階段に立って

こちらの様子を伺っているのが見えていました。

そのうち、見かねてか、千恵さんが扉を開けて店に入ってきました。

「恵ちゃん、久しぶりねぇ〜。このどんくさいT君といい仲なのかなぁ〜?」

と言って、水を向けてくれたのです。

私はそこで、照れ隠しなのか何だったのか、こう言って場を遮ってしまったのです。

「千恵さん、恵子ちゃんはどんな子じゃありませんよ」


この時の自分の気持ちは説明がつきません。

男子小学生が、好きなクラスメイトの女の子をリコーダーで叩いてしまうような、

あまりに幼い気持ちです。

考える間もなく、自分の口が思わず反応してそんな言葉を発してしまったのです。

その時の千恵さんの「このバカ!」という露骨な表情を見ても、

言葉を取り消したりしませんでした。


その直後、恵子さんは笑顔のままで鮮やかにこう言ってのけました。

「私、好きな人はいます。ずっと前からね」


呆気にとられて固まった私と千恵さんを尻目に、

彼女はフロントに待たせていた友達の方へ去って行きました。

スキー板を抱えて楽しそうに出て行く二人の姿を無言で見送る私に、

千恵さんがやっと口を開きました。

「アンタ・・・本当にバカなの?」


恵子さんの言葉の意味は、分かっていたようで、でも分かってはいませんでした。

彼女を追いかけて、誰が好きなのか、それを聞くこともしませんでした。

聞いて自分の名前を出してもらいたい気持ちと、

自分以外の名前だったら自分がみじめになることが怖い気持ちが入り混じり、

結局何もしませんでした。

何もしないまま、最後の白馬でのリゾートバイトを終わらせて、私は大阪に帰ったのです。





思えば、恵子さんに逢う機会は、広い森を流れる風と風とが、

大きな樹の根元で偶然出逢うような、非常に限られたものでした。

再び与えられたその貴重な機会に自分から求めていく以外に、

継続させる術はなかったのです。

なんとか二人を結びつけようと水を向けてくれた千恵さんの優しさ。

応えられる背一杯の範囲で応えてくれた恵子さん。

そこに私という男性の一言さえあれば、違う展開になったかもしれないのに、

流れるままに流してしまった私がいて、二度とない機会はそのまま流れていったのでした。


二人の女性が繋いでくれて急遽見えかけた風樹での合流を、

永遠に閉ざしてしまったのは、私の傍観だということは分かっていました

「好き」という告白が私の口からあれば、何もかもが上手くいっていたように思えて、

さすがの私も自分の過ちを認める気持ちになりましたが、

それを挽回する行動が取ろうとしなかったのです。


それから恵子さんと会う機会は二度とありませんでした。



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