小説「女の嫉妬」1話

女の嫉妬




砂利を踏む牛車の音。

すっかり寝静まったこの家にそれが段々近付いてくる。

――やっと帰ってきた。もう何時?

今夜ぐらいは起きて迎えようかな。

深夜まで仕事をしてきた夫を寝ずに待つ妻の役なんか久しぶりかも。

子供たちをとっくに寝かしつけて、わたしも随分前に床に就いていたのに

今夜は珍しく音で起きちゃったから。

細く木戸を開けて帰ってきた夫を覗き見るとあの人が牛車から裸で降りてくるじゃない。





――えっ?何?わたしは目を疑った。

褌や足袋は着けているものの、どうして服を着ていないの?何、これって?

あの人に何か指示された牛飼童が牛車の中に入って行ったと思ったら、

あの人の服を手に抱えて降りてきた。

朝着ていったいつもの出仕用の衣装。

いけない。見なかったことにした方が良かったのかしら。

そう思ったらこのままじゃいられない気がして、わたしはそっと戸を閉め、

最初から起きなかったフリで床に戻った。


夫が家に入ってくる。いつものように家族を起こさないよう。音を殺して。

子供たちもわたしもいつもはとっくに寝ている時間だから、

こんな遅くなった時には起きてゆかない。

――不思議。いいえ、不自然よ。どうして服を脱いでいたのかしら。

考えると段々イヤな方向にばかり想像してきちゃった。

お酒を飲んだら服を脱ぐ人でもないし。

出仕するにもあの服を好んで着ていたし、着替えて帰ってくるなんて今まで一度もなかったし。


ますます変。従者たちを帰したあの人は、

台所に置いておいた食事を静かに食べると別室の床に入っていった。

手のかからない良い夫ね。それは本当にありがたいんだけど。

――あぁ、分からない。あの服はどこで、何故脱いだの?

仕事に真面目で、生活も乱さずにきた夫に

そんな質問をするのが馬鹿馬鹿しくて、わたしなんか聞くに聞けないかも。

考えたら余計なことまで考えちゃう。



――まさか、浮気?

いいえ、あの人がそんなことをするのは想像できないのに。

子供たちと一緒に遊んで楽しそうにしているあの人の笑い顔を思い出すと、

そんな浮気とか女の人とかやっぱり考えられない。

――だって変よ、変じゃない。説明できないもの、あの裸は。

考えるだけ馬鹿馬鹿しいって分かってるのに。

あの人に限ってそんなことはないって分かってるのに。

夫の鼾が聞こえてきた。

こんなすぐに眠っちゃうぐらいなんだからやましいことなんてないんでしょ。

そうだと思うよ。思いたいよ。

わたしは眠れそうにない。

幾度も寝返りをうって、その謎の根元を見ようと一人やけになっている。



――やっぱり、浮気よ。

女の所から慌てて帰って来て服を着る時間がなかったの?

いつもこんな遅くにはわたしはもう寝てると安心してるから、

そのまま裸で家に上がってきたのかな。

いいえ、仮に浮気だとしてもそんな無用心、あの人には珍しい。

そんな安易なことをする人じゃないもの。

やっぱり分からない。でも知りたい。

考え込んでいたらますます眠れなくなってきた。馬鹿ね、ホント馬鹿ね。


考えても仕方ないことじゃない。そうだ、牛飼童に聞いてみよう。

あの童なら知っているはず。上手く口を割らせればいいことじゃない。

なんだ、簡単じゃない。そう、もう考えてもどうしようもない。

明日よ、明日。もう止めて寝ましょう。

あの人ののんきな鼾がずっと聞こえてきている。

いい気なもんね。わたしはあなたのことが心配で眠れないのよ。

本当に浮気なのかな?ただの思い過ごしかな?

考えないでいようと考えていたらますます考え込んでしまう。



突然、わたしは自分の胸が身体から飛び出すような激しい感情に揺さぶられた。

自分だけのものと信じて疑わなかった人が、

実はたやすく誰かに手を触れられていると知った未知の空間。

この空間に心を突っ込んでしまったらそれは恐ろしいスピードで私の心を嫉妬の赤に染めていった。

嫉妬の赤。嫉妬の赤がわたしに迫る。

許せない。その女が許せない。

大して愛してもいないくせにわたしの大切な人の肌に触れた。

わたしがどれだけ真剣にあの人との暮らしを過ごしてきたか分かってないくせに。


じっとしていられなくなって、わたしは厠に立った。

そっと歩くけど心は燃え滾って胃の中身を全部吐き出しそう。

目をじっとつぶって思い切り闇の中に無声で叫んでみる。

――駄目だよ、駄目だよ!そんな簡単に今までを、わたしを裏切らないで!

わたしは何度も何度も音を殺して叫んだ。

もうわたしの中だけに収まりきれなくなった心が一人歩きで暴れ出しそう。

目を開けたら危ない。歯を緩めたら危ない。

制御を失った暴力的な血がわたしの髪先から指先まで膨れ上がり、

わたしを不能の塊りにさせた。

激情。こんな醜い激情。

嫉妬の赤になすがまま、わたしはしばらく自分を切り離した。

落ち着くまで、どす黒い赤が落ち着くまで。

わたしは逆らえない渦に身を任せ、自分が自分であることを放棄した。



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