小説「夏侯覇仲権」1話

夏侯覇




――暗い雨。夏侯覇の身体を冷たく打ち付ける。

全身を滝のように流れる大粒の雨は、手綱を握る腕を狂わそうとしているのであろうか。


夜半の闇に、森の間道を進む一隊がある。

口を開く者もなく、ただ確実な足音だけが響き、

兵の表情には行軍の疲れも見えるが、それ以上に何か強い決意のようなものを感じる。

とりわけ、その将である夏侯覇の眼差しに宿る決意の色は尋常ではなかった。

何か途方もなく大きなものに引き寄せられるかのように、迷いなく馬を進めている。


魏の征西将軍の地位にある夏侯覇がわずかな兵のみを連れ、

大雨の中、敵対国である蜀へと深夜の行軍をしている。

余程の理由がなくては取ることのない行動であろう。

事実、夏侯覇は蜀へ投降する途中であった。


西暦二百四十九年。中国は三国鼎立の時代にあった。

だが、建国時の英雄たちが次々と逝く中、三国が三国とも内患を抱えていた。

蜀では国家の生命線を繋いだ軍師諸葛亮が五丈原に没した後、

暗愚な皇帝阿斗劉禅に国家をまとめる力はなかった。

呉では跡継ぎ争いが起こり大黒柱の陸遜を巻き込んで死に至らしめていた。

魏では策士司馬懿の叛乱により皇帝の曹一族が実権を奪われていた。


夏侯覇は建国の功臣夏侯淵の長男であり、魏を代表する猛将夏侯惇の甥にあたる。

魏の礎を築いた曹操の父は夏侯家からの養子だから、夏侯家は皇族である。

惇・淵亡き後、夏侯家の家長を夏侯覇が務めてきた。


この年の正月、魏の実権を握っていた大将軍曹爽は

司馬懿によって地位を剥奪された上、反逆罪に問われ一族もろとも誅殺された。

三国随一の策謀を持つ司馬懿にぬかりはなく、

支配体制を確固たるものにするべく各所に手を打つ中で、

曹爽の親族である夏侯覇に洛陽へ戻るよう命令を下した。

西の雍州に駐屯して蜀を睥睨する任についていた夏侯覇は

司馬懿に殺意があることを悟り、蜀への投降を決意した。


夏侯覇が側近だけを率いて亡命しようとすると、彼を慕う兵士が後に続いた。

しかし、途中で雍州刺史郭淮の強襲に遭って夏侯覇軍は壊滅する。

残ったわずかな兵を連れ、蜀へと夏侯覇は向かった。





それは自らの全てを投げ捨てての投降であった。

夏侯覇の妻子や一族は洛陽にいた。

既に司馬懿に目をつけられた以上、このままでも殺される可能性はあるが、

夏侯覇が亡命することによってその危険性はますます高まるに違いない。

魏の皇族であるという肩書きを捨て、一族全員を魏に残したまま、

それまで敵対していた蜀に逃げる。

奇しくも蜀帝劉禅の后の実母は夏侯覇の妹であり、夏侯覇は蜀にとっても皇族であった。

だが、そうだからといって蜀が受け入れてくれるかどうかは分からない。

かつて蜀との戦で諸葛亮の策に陥った魏軍を退却させようと、

自らの生命を投げ打ってまで死地に飛び込んで防戦し、

魏兵からの賞賛を一身に浴びた軍責の将・夏侯覇である。

遼東の公孫淵鎮圧で多大な戦果を挙げ、夏侯家の名声を高めた夏侯覇である。

皇族夏侯家の家長として責務を重んじること鉄石の如しと言われた夏侯覇である。

そんな男が敵国の蜀に降るなど、誰も考えることはできなかったであろう。


降将の恥に耐えてまで蜀に降る理由など夏侯覇にはないはずなのに。

彼が責任を負ったのは伯父や父が築いた魏と夏侯一族のみのはずなのに。

自分を虐げたからといって魏に復讐など、魏を愛したこの男にできるはずもないのに。


彼の心底に蠢く無数の葛藤が大雨となり、蜀への間道を叩くかのようだ。

眉間に刻み込まれた深い苦悩。

両の眼の険しさには鬼気迫るものがあるのに、頬に浮かぶかすかな安堵の微笑みは一体何だ。


――何かある。この男には何かがある。

想いを隠し、前だけを見ながら夏侯覇は先を急ぐ。

蜀へと続く暗くて長い道を、夏侯覇を乗せた馬が駆け抜けた。



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