小説「夏侯覇仲権」5話

夏侯氏




許都での暮らしは、夏侯氏に安泰をもたらした。

東郡にいた夏侯氏一同が合流し、ひとつ屋根の下に集結する。

帝都であり、曹操軍の本拠地でもある許都には軍勢も多い。

陳留での旗揚げ以来、遂に安住の地を得たと言えた。

惇や淵は近隣勢力を討伐するために家を留守にすることが多かった。

その度に仲権や子雲も随行を許されたが、

初陣以来二人は中軍に留められたままで、前陣に立つことは一度もなかった。


落胆の少年たちは許都に帰ると山野での狩猟に耽った。

馬を縦横に駆らせ、すっかり腕を上げた弓矢で野兎や鹿を射止める。

獲物を持って家に帰ると家族に向かってさも大袈裟に聞かせた。

二人には狙いがあった。直接惇や淵に対しては言うのはわざとらしい。

だが、家族の口を経由して彼らの耳に入れば印象が変わると思ったのだ。

これは子雲の策だった。

最初の何度かは家族もよく話を聞いてくれたが、

毎度毎度冒険譚をまくし立てられるうちに飽きてしまったようで、

次第に二人の話から遠ざかるようになっていた。

今ではただ一人、玉思だけがいつでも楽しそうに耳を傾けてくれる存在だった。


玉思は夏侯淵の養女であるから仲権の妹であり、子雲の姪にあたる。

淵には生後一年も経たずに死んでしまった女子がいた。

その後間もなくして沛国時代からの幼馴染が戦死し、忘れ形見が残った。

淵は強引なまでにお願いをして、その女子を引き取り養女とした。それが玉思である。

玉思の笑顔はいつも夏侯家を明るくさせていた。

天真爛漫に育った玉思は誰に対しても自ら心を開く。

老若男女を問わず誰もが彼女のことを好きになった。

初対面の者であろうと偏屈者であろうと、すぐに玉思のことを可愛がるようになった。


この日も、子雲と仲権の自慢話に聞き入る玉思の姿があった。

玉思は仲権よりも三つ下の十一歳。

三人は秋の穏やかな陽光を全身に浴びながら、夏侯家の庭で話し込んでいた。

「――そこで仲権は上手く誘導して鹿を茂みから出させたんだ!

するとその前には僕が待ち構えている!

行き先を塞がれた鹿が僕の前に飛び出してくる!

奴は僕のことを見ると、どの方向に逃げようか一瞬迷った。

その瞬間を逃さず矢を放つと奴の眉間に突き刺さったよ!

これが挟撃の計だね。戦でもこうして敵を欺くものなのさ!」

隣の玉思に向かって子雲が興奮気味に話している。

玉思はじっと目を開いて、子雲の顔を見つめている。

逆の隣に座った仲権が今度は口を開いた。

「それだけじゃなくて、途中でえらい目にあったんだ。

馬を休めている時、捕った野兎を火にくべていたらさ、知らぬうちに野犬に囲まれていたんだ。

匂いを嗅ぎつけたのか、気が付いたときには数十匹も集まってきていた。

危ないと思ったね。

すぐに馬に乗って脱出しようとしたものの、

飢えて狂暴になっている奴等は焼いていた野兎だけじゃ満足せずに、

僕たちの馬に吊るしてあった鹿にも興味を示してきた。

咄嗟の判断で、子雲と馬を揃えて強引に突破したよ。

あの時別々に逃げていたらどうなったか分からない。

まぁ、僕たち二人が協力すればこの通りだね」

「お兄様たちはお強いですから〜。

明日の狩りは玉思もとっても楽しみにしておりますよ。

お兄様たちの腕前を見せてくださいね〜」

「もちろんだ!ようやく玉思にも僕たちの腕前を見せられる機会だからね。

惇小父や淵小父はいつも僕たちの話を信じてくれないけど、

明日こそは見せ付けてやる!なぁ、仲権」

「そうだ!あの二人をびっくりさせてやろう!」

「明日失敗したら当分は戦にも連れて行ってもらえないかもしれないぞ。

仲権、遅れは取るなよ。玉思も仲権の矢が下手だと思ったら正直に言っていいんだからな!」


そう言うと、子雲は仲権と目を合わせて楽しそうに笑った。

二人につられて玉思も太陽のような笑顔を見せた。

それを見た誰もの心を開かせるかのような真っ直ぐな笑顔。

玉思に喜んでもらうことが、今の子雲と仲権にとっての幸せだった。

太陽の方向へ少しでも蔦を伸ばそうとする草木のように、

二人は気持ちを玉思に近付けようとしていた。

そう、この二人もずっと以前から玉思の飾らない笑顔の虜になっている。


翌日、夏侯家では家族総出で狩りが行われた。

淵を先頭に、妻や子供たち全員が許都を出る。

先導の淵のすぐ後ろには子雲と仲権がいた。

惇は妻たちの馬車に同乗して、楽しそうに朝から酒を飲んでいた。

仲権の鞍には玉思も同乗していた。

女子が馬に跨って外に出るなど、通常有り得ることではない。

仲権はにこにこと嬉しそうに顔を綻ばせながら玉思に声をかけている。

玉思も馬を怖がりもせず随分と楽しそうにしていた。

その隣に子雲が馬を並べている。三人は取り留めもなく話し続けていた。

前の淵も先導の役目そっちのけで振り返っては玉思に話しかけている。

玉思の口からこぼれる言葉をひとつでも多く自分に向けようと、大の男子が競い合っていた。

そんな四人の姿を、取り巻きの従者たちも暖かく見守っていた。





夏侯家の中で玉思がどんな存在であるのか。そこにそれが現れていた。

玉思の微笑は、女神のそれだ。

周りの皆を和ませることができる太陽の存在である。

夏侯家が曹操の親族としてどれだけの権力があろうとも、

惇や淵がどれだけの戦功を立てて敬われようとも、家の中では一人の男である。

家長の威厳さえ柔らかく溶かしてしまうほどに玉思の笑顔は輝いている。

人は人。本物の笑顔には敵うべくもない。

この狩りのことを惇や淵がどれだけ楽しみにしていたことか。

狩りをすると言い出したのは惇で、玉思や妻たちも連れ出すことにしたのは淵だった。

山野に出て家族で狩りをするのは、実に陳留以来十年ぶりのことだ。

親として子供たちの成長を見る絶好の機会であるし、

四方からの外圧が強まりつつある中で政務に追われる惇・淵に取っては又とない休息の場であった。


昨夜の食事の時にも、感情が表面に出がちな性格の淵は

狩りのことが楽しみで楽しみで仕方がない、という様子だった。

普段は冷静な惇でさえも、楽しみにしている素振りをみせていた。

大袈裟に聞かされている子雲や仲権の弓の上達ぶりや

他の子供たちの成長を見届けたかったのだろう。

そして、玉思と過す一日を楽しみにしていたのだろう。

なんのことはない、惇も淵も玉思の笑顔の虜になっていた。


山野に入ると従者たちが犬を放ち、獲物を茂みから追い出す。

その獲物に向けて子雲や仲権、従者に連れられた弟たちが矢を放った。

その様子を眺めて、惇・淵と妻たちが呑気な歓声を立てている。

一番多く獲物を射止めたのは子雲だった。

淵に比肩する腕とは到底言い難いが、子雲の弓矢の技は既に一人前だった。

仲権も少年とは思えない技を持っているが、子雲はそれを上回る技術を習得していた。

他の威・恵・和・楙の弟たちも小さな弓を抱えて走り回るがなかなか獲物には当たらない。

その様を見てまた惇たちは笑うのだった。

昼までに得た成果は鹿が二頭、野兎が四羽だった。

そのほとんどを仲権と子雲が獲っていた。

従者たちも代わり代わりに矢を放ったのにあまり成果が上がらなかった。

昼食の場で散々に誉めてきた玉思に、二人は小声でささやいた。


この山野はしょっちゅう二人で狩りにきているので、

土地勘もあるし、獲物がいる場所も分かっているのだ、と。

でもそれは秘密にしてくれよ、

みんなにこの山は初めてだと言ってあるから、と子雲は目配せをした。

それを聞いた玉思が嬉しそうに笑ってくれたことが、また子雲と仲権にとっての喜びだった。


昼食の最中に、淵の単騎駆けが始まった。

一矢でも外れたら今日は酒を飲まん、と宣言して矢を三本だけ持った。

見守る中で淵は野兎を一矢で仕留め、大きな野猪を次のたったの一矢で倒したのである。

三矢の技は圧巻だった。

ふと空を見上げ、雁の群れを見つけると先頭の雁を落とすと宣言し、

本当に射止めてしまったのである。

これには一同大きな拍手を送った。飛ぶ鳥を落とす技はまさに神弓である。


誇らしげに戻ってきた淵は、惇から盃をもらうと一気に飲み干して豪快に笑った。

玉思が酒瓶を持って淵の横に座った。

いよいよ楽しそうにして淵は玉思に酒をつがせている。

余程気分が良かったのか、淵は食後にまた馬を走らせた。

子雲は淵に同行を申し出て、二人で駆け出した。

仲権は惇と狩りを始めることにした。

朝酒を喰らってご機嫌の惇は自ら勢子の役を買って出たが、

歩いて獲物を追い出すのは面倒らしく、長棒を持って馬を走らせた。

叢から獲物を追い出すと、大声で仲権を急かし立てる。

「仲権!ほら、そこだ!早う射よ、兎が逃げるぞ!」

馬を野兎に平行させ、仲権が矢を放つ。

しかし、急に方向を変えた野兎を捉えることができず、矢は外れた。

「その程度の腕前か、仲権は!まだまだだのう!」

惇はからからと笑った。

「なんの!次こそは本気を見せましょう!」

仲権はむきになって言い返した。目を皿のようにして次の獲物を探す。

しばらくすると、棘から鹿が走り出してきた。

仲権の放った矢は見事鹿の背中に的中したが、

致命傷ではないらしく鹿はそのまま走って逃げようとする。

惇は長棒を投げ捨てると弓を手に取った。

惇の矢は重い音を立てて鹿の臀部に突き刺さり、鹿は倒れた。

「射たり!射たり!」

惇が誇らしげに弓を頭上にかざす。

「どうだ、仲権!まだまだお前の弱矢では敵は倒せんぞ!」

そう言われると悔しくなる。

なんとか惇の前でいいところを見せようと獲物を求めて森の奥まで馬を進めたが、

もう何も姿を現さなかった。

「そろそろ戻るぞ、仲権」

仕方なく仲権は惇と駒を並べて戻ることにした。


「――まぁ、午前中の成果だけでも上出来だ。あとは、それをどう戦場で活かすかだ。

雑兵はともかく、武芸の心得のある将には余程の矢でなければ通用せん」

それを聞いた仲権は喜んだ。

上出来――惇伯父にすれば最高の褒め言葉だ。

「伯父上は戦でどういう使い方をするのですか?」

ふと、仲権は尋ねてみた。

「そうだな、直接攻撃の補助だと思えばいい。お前の槍を助けてくれる頼もしい味方だぞ。

よいか、自分より強い敵は必ずいるものだ。

槍で敵わないと知ったら、矢で勝負することだってできる」

「自分より強い敵、ですか。聞かせて下さい、そんな男はいたのですか?」

「わっはっは!!」

この惇伯父が「自分より強い敵」などという言葉を発すること自体が不思議だった。

仲権がすかさず聞き返したが、曹操軍随一の猛将は笑って答えなかった。



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