小説「カムイの川に月が昇る」2話

知床 カラフトマス




もっと静かな場所に行きたかった。

そういえばウトロからの途中に平和そうな川があったのを憶えていたのでそこに行ってみることにした。

幌別川のパーキングに停めて川沿いを歩く。

きれいな川。ここはコンクリートで固められていない天然の姿のまま。

無数の鮭の魚影があった。

しばらく歩くと車の騒音もなくなってすっかり森の静けさに包まれた。


西日が強くなったのでサングランスをかけると、不思議と川の中がよく見えることに気が付いた。

凄い数だ。どれも立派な身体つきの鮭が上流を目指して泳いでいる。

何がしたいのだろう。産卵なんてどこでもいいじゃないか。

ふと、人の声が近付いてきた。

地元の人が知り合いを連れてきたらしく、良人といくらも離れていない場所で解説を始めた。

声が大きい。自然とそれを聞かされる形になった。


――秋アジは偉いのよ。

ほら、あんなに尾びれがボロボロになるまで産卵床を作るでしょう。

メスは自分が産んだ産卵床から死ぬまで離れないのよ。

しかも川に上がってきたら飲まず食わずなんだから。

えっ?川の水を飲んでるって?

そうね、水ぐらいは飲んでるわね、おっほっほ。

秋アジ?鮭って鯵の仲間だっけ?良人は首をかしげた。

そのまま後ろも振り向かず川辺に座っていると次第に声は遠くに去っていった。


黄昏時までぼーっと鮭を見ていたら、パンパンと手を叩く音がした。

熊でも出たかと思ってびっくりして後ろを振り向くと、現れたのはまだ若い男性だった。

――どうしました?こんなところで。

――いえ、別に何も。

――そうですか。

この時季、朝晩は熊の出没率が高くなりますから注意してくださいね。

私は自然解説員です。

この下流に鮭を喰い散らかした跡があったのでちょっと見回りに来ましたが、こっちは大丈夫のようです。

いずれにしても、音を出して存在を知らせるのが有効です。

秋アジを見ていらっしゃる?

――まぁ、そうですね。あの、その秋アジって鮭のことですよね?

鯵の仲間でしたっけ、鮭って。

――いえいえ、違うんですよ。

秋の鯵じゃなくて、秋の味覚で、秋味です。

それと、あれは鮭じゃないんですよ。カラフトマスです。

サケ科で一番繁栄している魚ですね。

秋味――鮭のことですが、も遡上しますが、数は少ない。

――一番繁栄している?

――そうです。魚にも繁栄している種類と、そうではない種類がいるんですよ。

まぁ、一概にそうとも言い切れない部分もありますがね。

魚に興味あります?

――それなりにありますね。

カラフトマスでしたっけ、こんなにいるからびっくりしていたところです。

思わず会話してしまった。

別に誰とも話なんてしたくなかったのに。





――そうですか。このカラフトマスは素晴らしい魚です。

危険を冒してまで川から海に出て、オホーツク海のみならず

遥か遠くのベーリング海やアラスカ沖から豊饒な栄養を得て、

そしてまたここ知床に戻ってくるのです。

なにせ栄養が違うから個体数も卵の量も他の川魚の比ではない。

へぇ。それは知らなかった。

――子孫繁栄のために身を呈する姿はいつ見ても涙が出そうになります。

こうして毎年カラフトマスは自分の生まれた川に戻ってくる。

そして自分たちの子孫をここに残すと同時に、自分たちの身体を栄養として森に還すのです。


――森に還す?カラフトマスが?

――そうです。ヒグマやシマフクロウなどの動物たちがカラフトマスを食べます。

川を遡上して力尽きたカラフトマスの死骸は分解されて周辺の森の栄養になります。

カラフトマスの遡上がこの知床の自然の生態系に一役買っていることは間違いありません。

偉いな。そんな凄い奴とは思わなかった。

――自分の身体が枯れそうになるまで産卵を続けるカラフトマス。

オス同士、メス同士で切磋琢磨してパートナーを探し求め、

少しでもより強い子孫を残そうとする産卵の営み。

人間にはない厳しさでしょう。

それが彼らカラフトマスの繁栄を支えている。

全てのベクトルが自分個人のためではなく、未来のために向かっています。

この自己犠牲の精神は素晴らしい。

なるほど。さすがは地元の自然観察員だから話が分かりやすい。

――ありがとうございます、何か良く分かった気がします。

カラフトマスの生き様を聞いて、思わず良人は自分のことを振り返っていた。


きっと俺は猿真似や狐顔のことが羨ましかっただけだ。

汚いやり方だと罵っても、最終的に結果を掴む彼らが妬ましかっただけなのだ。

それに比べて自分は何もできなかった。

過程がどうであれ、結果が残せない貧しい男。

たった一人の彼女すらも最後まで愛してあげられなかった。

何もできない自分が嫌いで逃避行に出たのが他ならぬ俺だ。



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