小説「カムイの川に月が昇る」1話

カムイの川に月が昇る




――今は昔、みんな消えてしまえばいい。

良人は過去を否定するために旅に出た。

昔のことなんて忘れてしまいたい。なにもかも、記憶から消してしまいたい。

なるべく人のいないところがいい。思い切り車を飛ばしたい。

それなら北海道だろう。あそこは道がまっすぐだ。

それも田舎にしよう。どうせなら最果ての土地にしてやろう。

地図を広げてみたらいい場所があった。知床半島。ここなら誰もいないだろう。


空港に着いたらレンタカーを借りた。

パトカーがウロチョロしているが、アクセルを踏んでスピードを出す。

あんな猿真似や狐顔とは縁を切れて清々していた。

彼女と別れてしまったことは今更ながら致命的だったと知った。

それで良人は全てを失ってしまった。

仕事を辞め、彼女との生活のリズムを無くしたら、何もかもが消え去ってしまった。

気が滅入っていた。だから旅に出た。

飛ばせ飛ばせ。こんな退屈な道はない。せめてカーブぐらい作っておいてくれ。

もっともっとスピードを出せと道路が仕組んでいるかのようだ。

意味もなく、行く当てもないドライブがしたかった。

スピードが欲しかった。広い農道をどこに行くのでもなく良人は走り続けた。





日暮れが近付いてきたので、そろそろ眠る場所に向かう。

一日中爆走したからいくらかでも気が晴れた。

ウトロに向かう道を走っていると、

ふと川沿いに沢山の車や観光バスが停まっているのが見えた。

前のトレーナーがノロノロ運転で眠くなっていたので丁度いい。

目覚ましがてら、車を停めて何があるのか覗きに行った。

観光客が見ていたのは鮭(サケ)だった。

コンクリートで整備された川に、何十匹もの鮭が泳いでいるのが見える。

へぇ。鮭ってこういう川にも登るんだ。

初めて見る光景だったが、良人には興味がなかった。

小さいことだよ。どうでもいいこと。

それよりも周りにどんどん観光客が群がってくるから気分が悪くなる。

今は誰もいないところに行きたいんだ。無視して車を走らせた。


ウトロのキャンプ場に入った。ホテルは取らなかった。

誰とも話がしたくない。ホテルじゃない、何もないところで眠りたい。

テントはないから、車の中で毛布だけかぶって眠った。

丁度東京では猛暑が一段落したところだ。

こっちではもう寒くなっているだろうと覚悟してきたが、

朝晩の冷え込みは予想以上だった。

そのまま昼まで寝ていた。ストレスのせいだろう、最近ずっと寝不足が続いていた。

目は覚めているのだ。でも、起きる気になれない。

色々なことをぼんやりと思い出しながら、空虚な眠りを貪っていた。


――あいつらがおかしいんだ。俺は間違ってない。

せいぜい自分たちだけが出世して、会社を喰いモノにしてればいい。

俺の苦労を踏み台にして、どこまでも上がってゆけ。

上役の猿真似ばかりして上にこびやがる同期のあいつ。

狐のような顔で、俺をラインから蹴落とした上司。

俺を騙し、俺が築き上げた地道な成果を横取りして、

猿真似は俺より先に出世していった。

俺の仕事の欠片さえマネージメントできなかったくせに、

どうしてあの狐顔が俺の仕事の功績で昇進できるんだ。

許せない不満があり、俺は会社を辞めた。


知床の一番奥まで行こう。

でも、知床五湖まで進むと観光客が多いせいか

駐車場が満車になっていてどうも冷めてしまった。

道を変えて最奥の道を行く。

途中の道は豪快だったが、舗装されていないので

スピードが出せなくてイライラした。

最後まで行くと珍しい天然温泉があるようだったが、

別に観光目的でもないし興味がない。

そのまま引き返すことにした。


帰りの道は霧がきつくなっていた。

深い霧にはどうしてこう現実感がないのだ。

釣られて考え事をしていたら、道の真ん中に一頭の鹿が立っていた。

思わず急ブレーキを踏んで止まる。鹿は良人の方を向いたままで動かない。

目が合った。その無邪気な目。優しそうな毛並み。

――あぁ。そんな目で俺を見ないでくれ。

その鹿の目の無邪気さに、良人は彼女の姿を重ねずにいられなかった。

俺のことを愛してくれていたのに、彼女のささやかな身勝手が許せず

一方的に別れを告げてしまった。

その短気を俺は今、後悔している。

別れてから後悔の念が沸々と湧いてくる。

それは丁度、原生林から溢れてくるこの霧のように。


悔やんでも悔やみ切れない。

もう戻らない時間。

二人だけのベッドの中で俺のことを見つめてくれたあの純粋な目。

柔らかな髪。あれさえあれば本物じゃないか。

何がなくても本物じゃないか。

自分を犠牲にしたところで本当は何の問題があったというのだ。

――もう戻らない。

だが、いずれ俺はあの場所から卒業しないといけない。

耐え切れず、良人の手が動いた。

クラクションに驚いた鹿は、それでもゆっくりと道路脇の森に消えていった。



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