小説「狂い咲き」4話

願成就院 不動明王




ケンと一緒に取材していた頃は、仏像にスポットを浴びせていたわけじゃない。

京都や奈良の寺院にある、日本の美を追っていただけ。

庭園や建築物、書画・陶器・祭り・文化、みんなを混合させて、美しいものだけをピックアップしていた感じ。


その中でも、私は仏像に他以上の興味を抱いていて、

如来や観音、明王から四天王まで、特別どれが好きということもなく、仏像全体をアートとして好んでいた。

それが、伊豆長岡の願成就院にある、

仏師運慶が創った不動明王と出逢って、強烈なインパクトを受けた。





運慶の不動明王は、それまで色々なお寺で見てきたどの仏像とも違っていて、

全身の怒りを極端なぐらいまで、強調していた。


それまでは不動明王って、派手すぎて、単純すぎて、

奥ゆかしさがないと思って私はあまり好きではなかったの。

有名な運慶の作品だからって訪れてみた願成就院で、

運慶の不動明王に出逢ったら、その斬新な作意に一気に引き込まれて、

なんだか仏像を見る目が変わってしまった。


願成就院の不動明王で驚いたこと。

自分が怒っているのだ、というありのままの感情を表に出すのが、ひどく自然だったこと。

だって、自分の気持ちを誰かにちゃんと伝えるのって、なかなかできることじゃない。


伝えたいのに伝えることができなくて、私のように後で悩む人が普通のはず。

伝えられないまま、逢いたい人と二度と逢えなくなる、

そうした臆病が悲しみを増幅させることが人生では多いものだ、と思っていたの。


それまでは阿修羅と十二神将とか、もっと派手な仏像が好きだったけど、

私の心に変化が起きていた。

他の仏像にも長い物語があって尊重すべきだけど、

調べていくと不動明王の話だけは、私の心にすっと入って、なかなか出て行こうとしない。

何故なのか、次第に私は、不動明王の物語に強く引かれるようになっていった。





不動明王を追いかける旅が続いている。

今は薬師如来に手を合わせる気分じゃないの、

十一面観音菩薩や伎芸天の腰つきに官能を感じている場合でもない。

とにかく、不動明王の後背で燃え上がる炎が、

私という小さな人間を体現している気がして、その行方を追いかける、それだけだった。


東寺の講堂に入ると、不動明王が私を迎えてくれた。

最もルールに忠実な、クラシックな不動明王。

何が違うって、東寺のものは坐像になっていて、

「動かざるもの=不動」という元々の姿をよく感じさせてくれる。

運慶のものは、立像になっていて、より奔放に怒りと救済を表現していた。

ダメね、私のスタンダードが運慶のものになっているから、違いぶりが目につく。


こうして見ると、筋肉の張りや顔の表情、あとは玉眼に顕著だけど、

運慶の不動明王の生き生きとした創り方って、斬新。

東寺のものは、伝説の中で怒りに震えている仏様って感じ。

運慶のものは、現実の中で怒りに震えている武士って感じ。


両作品の違いは歴然としていて、どちらが善か悪か、

そんな答えはないけれど、私はこの違いのことを、今回の特集に私の言葉で書こうと思った。


「あなたはどっちの不動明王?仏様の怒りの東寺?武士の怒りの運慶?」



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