小説「奈良アートボックス」4話

伎芸天 秋篠寺




翌日、秋篠寺にも行ってみることにした。

長身の美女で知られるその伎芸天の姿を見に行こうと思って。

もちろん、バサラには内緒だし、バサラとのことも心にしまっておいてだよ。

そこは奈良公園から外れた、静かな住宅街の一角。

修学旅行生の姿も見ることのない、小ぢんまりとしたお寺。

南門をくぐり、見事に敷き詰められた苔庭を見ながら本堂に向かう。





伎芸天を見るのは初めてだった。

有名なお寺だし、有名な仏像だけど、普通の観光ではまぁ奈良公園だけだし、

行っても薬師寺唐招提寺の方しか行かないんじゃないかな。

今日はまだ出演のオファーなんて口にできないし、何もお話するつもりはない。

素敵な仏像に逢いに来た、ただそれだけ。


それで本堂の敷居をまたぐと、いらっしゃったよ、私は一目で圧倒されてしまった。

彼女は、美しかった。

大柄で、私を高く見守るように上背がある。

そのやや傾いた体躯には気高い美しさが漂っていて、

加えて大人の女性の色香がなんともいえず溢れ出している。

表情はやや諦めたかのような悟りの境地。

世の物事を受け入れつつも、愛や美醜の理解が漂う。

遠い場所で世の中を見守ってくれるかのような大きな存在。

私みたいな小さな人間とは全然違う世界にいる。


この直感に大きな間違いはないと思った。

だからただ両手を合わせて伎芸天を拝み、

堂内の他の仏像たちとの千年級の時間の流れを味わった。

この貴重な仏像たちを、私たち人間は千年以上も守り継いできたのだから、

人間も捨てたものじゃない。

こんな宝物が、目の前すぐに並んでいることの奇跡。

秋篠寺の仏像たちを代表して伎芸天には是非とも東大寺に集まって欲しい。

バサラとのことがなくても私はそう思ったことでしょう。





入口で貰った案内を見ると、伎芸天について説明があった。

七百八十年頃に生まれた彼女は、千二百八十九年頃に半身を焼失していて、

頭や顔は元のままでも、身体は五百年後の時代に作り改めたものだと言う。

その焼失の時期がバサラの言う二人の恋とどう関係しているかは、

こうして彼女を眺めていても分からないけど、

焼失によって負っただろう彼女の傷の深さは伺い知ることができる。


バサラとのこと。彼女を見ていたらますます何も言えないと思った。

失った身体や恋に執着している気配がない。

だからといって、新しい身体に満足していないような気配もないの。

五百歳差のある身体に上手く迎合していて、身体も顔も雰囲気も含めて、

今こうして見てもまるで一本の木から出来ているように、美しさが統一されている。

出逢った次の恋で、彼女は失ったものを補い、今の美を完成させたのかしら。

それで満たされた心が今も続いていて、

傾きの美と滅びの美を呑み込みつつも、再生の美を誇っているのでしょう。

その美しさに私は圧倒されるだけ。

美っていう言葉をこうして文字にするのは簡単でも、

その美を身体から発するっていうことは、容易にできることではないから。


バサラ。あなたも彼女を失ったことで、今の永遠の守りを手に入れたのでしょう。

彼から感じる強いメッセージ、堅固な守りと強い意思は、後悔や失敗の賜物。

そうだとしたら、二人の恋と別れが全てではないにしろ、

当時の出来事は二人を今こんなに豊かに、美しくさせた大きなきっかけになった。

なんだか、物事を超越している二人の仏像たちね。

もうこのままで十分美しい二人。再会する必要なんてないみたい。

それなのに、関係ない私が二人を引っ掻き回して、再会させてしまう。

それは罪には問われないかしら。


想像してみれば、美しい世界ね。

まだ若くて全身に色を持っていたバサラと、

今とは異なる美のある本来の身体を持っていた伎芸天が、愛し合っている風景。

遥かな時間の流れの一渦には、そんなこともあったの。

恋も人生ならば、失恋もまた人生。永遠の失恋なんて美しいものじゃない?


私は心を鬼にしようと思った。

無理に逢わせる必要がないのは承知の上で、それでも二人には再会してもらいます。

今更二人をくっつけようという心じゃなくて、二人のその心に新しい風を取り入れてもらいたいから。

一目でも逢えば、二人の心には未知の感情が生まれるはず。

それが大罪でも、私は受け入れる覚悟をするわ。

思い出だけを温めていた二人の七百年の壁を私が壊してみせる。

きっとそこには美があって、奈良アートボックスの美しさに華を添えてくれるに違いないから。





昨年、バサラと仕事をしている中で彼が印象的な言葉を言っていた。

「僕はもう相手から何かを与えてもらうことを望むのではなく、

自分から相手に与えることへ完全にシフトしているんだ」

そう確かに彼は言っていた。


バサラは何も求めていない。

この私から何かを与えてもらうなんて期待すらしていない。

それでも私は動かしてしまおう。

新しい風が作用して、バサラに刺激を加えさせるため。

私たちを最終的に動かすものは心ね、心。

若い頃は欲望だとか、外見だとかが動かしていたけど、

なんて言うのかな、そんな青くさいものが滅びてきたら、次は内存している感情が爆発してきた。

物質じゃなくて心で、私は心で突き動かされるようになってきたの。

千二百年前、同じ天平時代に生まれて、同じ時間を生きてきたバサラと伎芸天も、

そんな膨らむ感情を抑えて生きているのかな。


今、二人を見ていて共通して感じるのは、すっかり落ち着いてしまった外見の様子。

派手じゃないからつまらない?いいえ、年を重ねれば分かると思うの。

過去の後悔の反動が、二人を美しくさせているのよ。

この美が分からないっていう人は、貧しい心と乏しい経験しか持ってない人に決まっている、

ってちょっと私は馬鹿にしたぐらい。



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