小説「奈良アートボックス」8話

徳永英明 Rainy Blue




満月の夜、東大寺大仏殿前に千人の観客たちが集まってきた。

会場は闇の中にあって、いくつかの間接照明に照らし出されているものの、

観客たちの姿は東大寺の夜にまぎれている。

観客たちとステージが近い。

大仏殿前に設置されたステージは小さくて、バンドの機材を置いたらあとは限られたスペースだけ。

ステージ裏はもう奈良の大仏様。

大仏様の懐で、ミュージシャンたちが演奏するみたい。

少し距離をあけて、まだ火の付いていない木の櫓がステージ前を陣取っている。







会場の大きなモニターには若草山の様子が映し出されていた。

東大寺から若草山は直接見えない角度にあるから、このモニターが二点をつなぐ存在になっている。

今夜は穏やかな月夜になった。

風もなく、月だけが煌々と空を舞う。

ここ大仏殿前に電気の灯りは少ないのに、満月の灯りで足元が見えるぐらい。

またイベントも山焼きも始まる前なのに、ステージ上へ徳永英明がゆっくりと歩いてきた。

のんびりと手を振りながら、アウトドアチェアーを持って。

それでステージに彼が腰をおろすと、続いてSalyuと伊藤由奈がこれもゆっくりとチェアー片手に出てきた。


ステージ中心に腰かけた三人は、

なんだかリビングでテレビを見ているみたいにリラックスした雰囲気。

モニターには山焼きの準備に入った消防士さんたちが映っていた。

「おっ、もう少しで山焼きが始まりますよ、みなさん〜」

徳永英明はテレビの司会者のように語り出した。

「僕はこうして直接見るのは初めてだけど、お二人は?」

と、まるで緊張感ない雰囲気で三人が雑談を始める。

会場は花火大会の開始を待つような空気だった。

観客たちも思い思いにリラックスしながら、その時を待っている。

まだ仏像たちの姿も、他のミュージシャンの姿もない。


それでモニターの中の消防士がいよいよ火を放つとき、

実況中継のSalyuと伊藤由奈は歓声を上げていたし、

千人のみんなはモニターひとつを見つめていた。

火は放たれた。

若草山に小さく火が灯り、次第に山全体へと火が回ってゆくにつれ、

千人から少しずつ拍手が加わっていった。

モニターが切り替わると、奈良市内から少し離れた矢田丘陵からの映像になった。

月に照らされた小高い若草山が、火に包まれようとしている景色。

解き放たれた炎は自由に若草山を呑み込んでゆく。

揺れながら、輝きながら、一息に燃え盛っていった。





「みなさん。僕は思うんですけど、」

黙っていた徳永英明が静かに口を開く。

「太陽には巨大なパワーがあるから、

僕たち人間が昼間に何かしようとしても、太陽エネルギーには負けちゃいますよね」

さっきまでと声色が違うから、みんな聞き入っている。

「日が落ちた夜にこそ、人間本来のパワーが証明されると思うんです。

この奈良アートボックスというイベントは、人間が創りだすアートが主役だよ。

だからこうして太陽エネルギーが弱まったとき、この夜にこそ開きます。

太陽に負けず、お月様と渡り合えるぐらいの美しさを、

僕たち人間も創りだせるんだって、それをみんなで証明しましょう」


千人の拍手の後、しばらく沈黙があって、徳永英明がモニター近くにゆっくりと歩いてゆく。

モニターには燃え盛る若草山の映像。それを近くで眺める徳永英明。

その景色がなんだか一枚の絵のようで、みんながそのモニターと徳永英明の絵を眺めている時、

突然全ての電源が落ちた。

モニターが消え、間接照明が消える。

「感じますか、この薄い明かりはあの若草山の炎です」

闇の中の徳永英明の声。

すっかり灯りのなくなった会場に薄く感じる空の灯りは、

直接は見えないものの、若草山の野焼きの炎だという。

その美しさに酔い始めた観客が拍手をする。

そうしたら間髪入れずにステージ横から出てくる、

火のついた松明を持った二つの影。

あれはバサラと運慶じゃないか。

ゆっくりと二人はステージ前の木の櫓に近付いてゆく。

「始まります、みんなの奈良アートボックス」


徳永英明のその声と同時に、バサラと運慶が火を入れた。

木の櫓は油を含んでいたから、見る見るうちに火が櫓全体に燃え広がり、

会場を明るく照らし出した。

それは素晴らしい雰囲気だった。

櫓だけがはっきりと明るくて、闇に包まれた会場から見ると

その明りを受けて一番輝いているのは奈良の大仏様。

モニターが突然付くと、そこにはついに全力で走り始めた山焼きの炎が。

その炎が最高潮の盛り上がりを見せている時に、奈良アートボックスはスタートしていった。





一曲目は「Rainy Blue」。

自然と流れ始めたバックバンドの演奏に逆らうことなく、徳永英明とSalyuが流されるように歌い出す。

「人影も見えない午前0時 電話ボックスの外は 雨・・・」

構えることなく二人はただ歌をつないでゆく。

平静で、しめやかに、乱すことなく。

「あなたの帰り道 交差点 ふと足を止める・・・」

その姿を見て、早くも私は泣き出しそうだった。

そうよ、溢れる想いのままに歌い出して。

迷わず、考えず、そのままを歌って欲しい。

「あなたの幻 消すように 私は今日はそっと 雨・・・」

――ようやく私に今できる最高のアートが始まった。


観客たちも二人が歌う様を静かに見守っていた。

火の櫓のわずかな灯りを頼りに、スクリーンに映し出される風景と一緒に。

カメラは二人のアップだけでなく、東大寺大仏殿の全景をとらえていた。

大仏様とステージが炎の灯りに照らし出されている、幻想的な空間。

千人で囲む暗闇の中で営まれ始めた、人間たちの活動。

たまに若草山の炎、たまに徳永英明とSalyuが歌う表情をとらえて。

「あの頃の 優しさに 包まれてた思い出が・・・」

徳永英明とSalyuが最高のパフォーマンスを見せている。

さっきまで乾いていた木の櫓が今燃え盛っているように、

平坦なリズムを繕っていたさっきまでから一息に、二人の歌も頂点へと上がってゆく。





あぁ、うらやましい。思わず私はつぶやいていた。

ミュージシャンと違って、私のように人前で芸ができない人間ってなんて無力なの。

心はあっても、やろうと思っても直接のパフォーマンスができないよ。

でもこの枠組みを創ったのは私。主役じゃなくても脇役の一人として意味があった、

と誇りを持っていいのかな。

湧き上がるそんな醜いコンプレックスを抑えることができず、

しばらく心を無くした私がいた。

「揺れる心 濡らす涙 It’s Rainy Blue, ・・・ Loneliness・・・」

一曲目は静かに終わっていった。

それでいいの、何事もなかったかのように終わってゆく音楽でいい。



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