小説「再生の森に生きて」10話

知床の自然




「ケン。聞かせて欲しい。あれからどうしていたの?ずっと気になっていた……」


わたしはありったけの心を込めて言葉をつないだ。

興味本心から聞くのじゃないよ、あなたという人間を理解したいから聞いています。

それが伝わるように心から言葉を搾り出してみた。

そうしたらわたしはケンに見つめられた。

何も言わず一秒の間、ケンの目にじっと見つめられた。

わたしが思ったのは何だと思う?

人馴れしてない小鹿と森で遭遇したときの懐かしい感じ。

わたしを安全か危険かと探ってくる目と同じものをケンに感じていた。





「あれから、実家に戻って考え事ばかりしていた。

親からはちゃんと仕事を持つように言われたけど、今更街で仕事をする気にもならなくてね」

声色は小さく、ケンが言い始めた。

どうやら納得してくれたみたい。ちゃんと伝わったみたい。

何かわたしそんなオーラ出していたのかな。

「日本アルプスを登山しながらキャンプ生活を続けてね、

物事ばっかり考えて、時間だけだらだらと重ねていたよ。

そんな暮らし。何もしてなかったよ。ホント何もしてなかったな」

そっか、頭の中を真っ白にして考え事三昧か。それもそれでケンらしいとは思った。

「ゆっくり考えて頭の中を整理ね。そんな時間も大切」

合わせるわたしにケンが笑いながらこう続ける。


「いやいや、それがね、考えても考えても答えが出ない。

あの時ぶつかっていた壁は壁のままで全然乗り越えられなかったんだ。

3,000m級の御嶽山や槍ヶ岳を登り切ってもね、

自分の心は同じところをぐるぐると回ったまま。あんまり変わらなかった」

「うん、うん。体験したことないけど分かる気がする。分かるとは言わないけど、分かる気はするよ」

なんか自分でもヘンなこと言っているとは分かってたよ。

「ははっ!そんなに無理して分かってくれなくてもいいって!

懐かしいなぁ、そういうのぞみの人の善さ。誰も悪くは返せないよ、それじゃ」

やっぱりケンに笑われた。

「あのね、言い訳じゃなくて、本当に分かったような、でも分かってないような気がするの。

あぁ、なんか自分でも何言っているのか分かんなくなってきた!」

ダメだ、わたし。ちょっと軽い自己嫌悪。





「ところでさ、金閣寺っていう小説読んだことあるかい?」

また突然のお話で頭が付いてゆかない。

「金閣寺?京都の金閣寺?小説って三島由紀夫の金閣寺??」

本の名前ぐらいは知ってたけど。

「そう。よく知っているね。これも本当に偶然なんだ。

大雨で動けない山小屋に置いてあった本がその三島由紀夫の金閣寺でね、凄く大きな衝撃を受けた。

幼い時から親に金閣寺は何よりも素晴らしい、と盲目的に教え込まされて

金閣寺を過大妄想してしまった若僧がいてね、

その金閣寺で修行することになったのに彼が成長するときに

いつも金閣寺の幻想に邪魔されて、金閣寺という存在を打ち破れなかった彼が

最後には金閣寺に火をつけて逃走してしまうっていうお話なんだけどね」

「うん。そのお話は学生のときに何かの課題で読まされたからちょっとは覚えてる」

「それは話が早いね。その、僕も同じだったよ。

読めば読むほど自分の気持ちと重なってくるものがあってね、下山もやめてつい読みふけっちゃった」

「どういうところが?もっと聞かせて欲しいです」


「分かるかな、金閣寺に火を付けずにはいられなかったその若僧の気持ちを思うと、

僕もいてもたってもいられなくなった。

自分の中で金閣寺という存在がどれだけ大きな理想というか、

観念というか、乗り越えがたいものに膨れあがってきていて、

それをどうにかして乗り越えようと若僧がどれだけ苦しんだか、僕にはその過程が見えるようだった」

いつかわたしに知床の生態系を語ってくれたケンのあの懐かしい喋り口調。

今はどうやらまるで違うことを話しているみたいだけど、わたしはそれに聞き入ってみる。

「結局は金閣寺の呪縛から逃れ切れなかった彼だから、

最後は歪んだ方法でしか金閣寺を愛せなくなるのも分かるんだ。

火をつける、燃やすということが彼にとっての究極の愛情表現だったのだろうね。

その苦しさ、哀しみ、どれもこれも稀な感情が見えるよ。

僕には若僧の気持ちが痛いぐらいに響いてきた」





「燃やすのが金閣寺への愛情表現?」

よく分からない考え方。

「そう。その歪みきった、苦しい中での精一杯の若僧の行動が放火。

それに僕は衝撃を受けた。

今だから言うけど、僕にとってソーセージの存在はその金閣寺と同じだったんだよ。分かるかな?」

ケンの告白が核心に近づいてきているのは感じた。

でもわたしには分からなかった。だから聞いてみようと思った。

「まだ分からないよ。もっと教えてくれる?ソーセージと金閣が同じ?」


「そうだね、こんなの分かる人っていないからもっと分かりやすく言わなくちゃね。

若僧はずっと理想化していた金閣寺っていう存在を乗り越えようとして乗り越えられなくて、

自分の行き先に困って最後は火を付けることで乗り越えたんだ。

方法は反社会的だけど、乗り越えないとその若僧の未来が開かれなかったんだ。

だから彼にとっては深刻な問題を解決する術だったんだよ、社会的には放火という罪だけどね」

「うん、それは分かった」


「そこで僕だ。僕はね、自分のことを信じていた。

それは世の中できるものとできないものがあるけど、

動物を救うのは僕しかできない、僕ならできると思い込んでいたよ。

それがさ、ソーセージの件ではあのザマだ。

あれはもう僕一人では解決できないレベルの話だったのかもしれないけど、

ソーセージに銃口を向けて発砲した時に僕は感じていたんだ。

何か自分がプライドにしていたものが崩れ去ったというか、

もしかしたら反対に乗り越えたというか、そんな複雑な気持ち。

それが金閣寺の若僧の姿と重なった」

その話を聞いてわたしはようやくケンの心を理解したと思った。

ケン、でもそれは崩壊じゃないよ、進歩だよ。それを伝えようと思った。

「不思議な共感で僕は金閣寺の小説の世界に引きずり込まれた。

山小屋で漁るように僕は金閣寺を読み続けた。

下山しようとしていたのに何度も何度も読み返してしまった。

それでね、僕は思ったんだ。その後の若僧の行方は小説には書かれていないけど、

彼はきっと金閣寺に戻ってきたと思う。

それも金閣寺をまた炎上させるのではなくて、

金閣寺という心の大きな壁を一度乗り越えた彼だから、一回りも二回りも大きくなって、

それからは金閣寺に敬意を払う素晴らしい人間性を備えたうえで、

自分の人生を更生させるために戻ってきたと思う。

僕にはね、それが容易に想像できた。金閣寺のその後の話が浮かんできたんだ」





そう語るケンに笑顔が戻っていた。

朝もやを払って一日に輝き始めた水面のように。

「だから僕も知床に戻ってきたよ!なんだか若僧の真似みたいでしょう?

若僧のそれからを僕が体現するために戻ってきた感じだ。

こんなおかしな話、分かりづらいかもしれないけど、とにかくそういうことなんだ。

僕は戻ってきたんだよ」

彼は笑った。すっかり真っ直ぐな笑顔で、

ソーセージの出没に悩んでいた頃の暗い表情はもうそこにはなかった。


「分かるよ、全部分かるとは言わないけど、ちゃんと伝わってきた。

ねぇ、今更だけど言わせてね。あの時のケンの決断は間違いじゃない。

どう考えてもソーセージの行動はもう異常だった。

あの時も、それからも、今でもやっぱりそう思っているし、

きっとみんなからも同じこと言われたんじゃないかな。ケンも分かっているとは思うけど」

伝えたい言葉。ちゃんとそれが口にできた。

「ありがとう、のぞみ。確かにみんなからは同じことを言ってもらえたし、

あの銃弾が間違いだったとは最初から僕だって思っていなかったんだ。

ただ、人間という存在に失望というか、絶望しちゃっただけなのかな。

僕はね、あの件で人間という生き物にどこまでも失望してね、

そんな醜い人間である自分自身が自然という偉大な存在に向かって

お世話をするということの馬鹿馬鹿しさに気づいて知床を放棄した。

でもカラフトマスのこと、月の兎のこと、金閣寺のこと、

考えるとやっぱりまだ希望が持てると思ったからここに戻ったんだよ」

ケンの言葉にも表情にも迷いはないようだった。

あの日のケンを、わたしたち動物チームをリードしてくれていたケンの力強さを感じた。


「まだ僕は希望を持っている。人間を諦めていない。

だから戻ってきた。いくら人間の小ささを知ってしまったからといって、

それが自然への諦めにはつながらないみたいなんだ。

きっと数百年後にはこの知床の動植物は絶滅しているだろう。

環境破壊・地球温暖化の影響はもう数十年も前からこの知床に顕著じゃないか。

しかもそれが大幅には改善されていない。

だから、その悪い流れは人間がいる限り逃れられないんだ」

「うん、うん。分かるよ」

「僕がやっていることは、その逃れられない破滅の時間をわずかながらでも先延ばしにすること。

小さな仕事だよ、はるか大きい地球の歴史を考えれば瞬きほどの時間を知床に与える、

その一助にしか過ぎない。それでも僕はやろうと思うんだ」


しゃべり過ぎたのか、

ケンはそこでゆっくりとタンブラーのコーヒーに口をつけた。

「人間に絶望しながらも、絶望し切れていない。

人間の希望を最後は信じているから。

この知床の大地で自然保護の仕事を続けることがやっぱり僕の生きがいだって、

今はひしひしと感じている。もう迷いはないよ。

あのソーセージのことは大きな傷だったけど、おかげで今はもう迷わずに歩いてゆける」


ケンの表情は晴れ晴れしていた。なんて澄み切った、素敵な表情!

そんなケンを見ていたらあれからずっと心配していた

自分の方が馬鹿だったみたいで笑えてきちゃう。

遡上するカラフトマス、ここだけに住み着くシマフクロウ。

様々な動植物を、そしてケンやわたしを引き戻そうとするこの知床半島の魅力は、

どうしてこうも誰もの心まで深くつかんで離そうとしないのだろう。

ケンが戻ってきたこの知床はもう安心だと思った。

あのソーセージのことがあって、彼の知床への愛は一層深くなり、

この大地にいる動植物を保護してくれる。


――みんなが集まる時間が近くなってきた。

今日は天気も良くなりそうだし、仲間たちと知床の大自然をハイキングなんて、

とてもいい一日になりそう。

単純なことが一番楽しいし、一番素敵だと思えるようになってきたよ、わたし。

豊かなの、東京の暮らしは豊かなんだけど、やっぱりわたしは何かを失っていたみたい。

東京にいるといつの間にか見えなくなってしまうけど、

心はこの大事なピュアさを忘れちゃいけない、ってつくづく思わされる。

わたしはもうこの知床に戻り住むことはないでしょう。

でもまた時間が過ぎて東京の忙しさ、慌しさに飲まれてしまった時、

ここに戻ってきてケンやみんなと一緒にヒグマの生態を、

森の呼吸を、美しい知床を見たいなって痛切に響いてきた。





「そろそろ行こうか、みんな集まっているかもよ」

ケンがアウトドアチェアーをたたむ間、

ふと目に入るのはカラフトマスが遡上してゆくあの幌別川。

いつかここでケンが教えてくれた今昔物語のあの月のウサギのこと、

カラフトマスの犠牲の心のこと、前の記憶がもう一度輝いてきたように思えたよ。

この川に触れたい。ふと衝動に駆られ川辺に降りてみる。

そろそろと手を伸ばすと、指先に感じる冷たい温もり、それは命の流れ。

思わず瞳を閉じて空を仰げば、目覚めたばかりの太陽の向こうから、

わたしの暗い顔をあの月の光が照らしているようだ。


清流に月が昇る。知床の深い朝露が穏やかに一日の始まりを告げてゆく。

何もかも飲み込んだ後の、大きくも美しい自然が溢れていた。

この出逢いで膝を折って、わたしももう一度再生できるかな。

カラフトマスが恵みの森に還って行くように、この偉大なカムイの川で。

今夜も昇ってくるウサギの月のように、自分を犠牲にしてまで。その不屈の強い心で。



「再生の森に生きて」 完






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