小説「再生の森に生きて」2話

秋アジ カラフトマス




最初の仕事は、幌別川の下流にクマが鮭を食い散らかした痕があるという情報を受けて

動物チームが調査に向かうのに同行することだった。

まだ何も分からないままみんなに連れられて川沿いを歩くと、

真っ先に感じたのはなんてきれいな川なんだろう、ってこと。

東京と違ってコンクリートで固められた部分のまったくない、天然の姿のままの川。

何が違うって匂いだと思ったよ。不快な匂いのない、それはなんてきれいな流れ。

素人でも、素人だからそう感じた。

面白いよ、自然の中を歩くことが仕事なんて、初めてだからなんか不思議な感じ。

今まではビルの中のオフィスワークばかりだったから。


無数の鮭の魚影が見える。

パーキングからしばらく歩くと車道からの騒音もなくなり、辺りはすっかり森の静けさに包まれた。

サングランスをかけるともっと川の中が見えるよ、と言われて

試してみると見え方が全然違ってきた。

凄い数の、どれも立派な身体つきをした鮭が上流を目指して泳いでいる。

何がしたいのだろう。産卵なんてもうそこでできると思うけど。

どうして先を急ぐの?





「秋アジは偉いんだ。子孫への愛情が深い。

ほら、あんなに尾びれがボロボロになるまで産卵床を作るだろう?

メスは自分が産んだ産卵床から死ぬまで離れないしね。

しかも川に上がってきたら飲まず食わずなんだから」

ケンさんが指差す先には、ボロボロになった尾びれを水面にさらしつつ

ゆっくりと円を描くように泳ぐ鮭の姿があった。

「でもケンさん、川の水は飲んでいるんじゃないんですか?」

知らないことだから、ためらいながらもマジメに聞いたら

なんだか面白かったみたいで側にいたレンジャーの西尾さんに笑われた。

「そうだな!飲まず食わずって言っても水ぐらいは飲んでるな!ケンさんの負けだ!ぐわっはっは!」

なんかわたし、おかしなこと言っちゃったみたい。

結構マジメだったのに!ところで、秋アジって何?鮭って鯵の仲間だっけ?


「あの、その秋アジって鮭のことですよね?鯵の仲間なんですか、鮭って」

聞いてみるとケンさんは笑わず丁寧に教えてくれた。

「いやいや、違うんだよ。秋の鯵じゃなくて、秋の味覚で、秋味ね。

それと、ああして泳いでいる魚の大半は鮭じゃなくてカラフトマスだ。

サケ科で一番繁栄している魚だよ。

秋味――シロザケのことだけど、その秋味も遡上するけど、数は少ない」

「一番繁栄している?」

なんかヘンな言葉。

「そうだよ。魚にも繁栄している種類と、そうではない種類がいるんだ。

まぁ、一概にそうとも言い切れないところもあるけどね。魚に興味あるかな?」

「あります。カラフトマスでしたっけ、こんなにいるからびっくりしちゃいました」

知床に来てまだ数日しか経ってないけど何に大自然を感じさせられたか、

わたしは圧倒的にこの鮭だった。

車道から見かけるエゾシカにも感じたけど、それ以上にこの鮭にわたしは驚いた。

川面を黒い魚体が埋め尽くすようで、大群が海から川へと泳いできている、

すごく印象深いシーンだった。


「このカラフトマスは素晴らしい魚です。

危険を冒してまで川から海に出て、オホーツク海のみならず

遥か遠くのベーリング海やアラスカ沖から豊饒な栄養を得て、そしてまたここに戻ってくる。

なにせ栄養量が違うから個体数も卵の量も他の川魚の比ではない」

なるほど。納得できるケンさんの説明。

それはいいけど聞き慣れない言葉ばかりで驚いちゃう。

「子孫繁栄のために身を呈する姿はいつ見ても涙が出そうになるな。

こうして毎年カラフトマスは自分たちが生まれた川に必ず戻ってくる。

そして自分たちの子孫をここに残すと同時に、自分たちの身体を栄養として森に還すんだ」





「森に還す?カラフトマスが?」

まるで不思議。海の魚と陸の森との接点がよく分からないよ。

「そう。ヒグマやシマフクロウなどの捕食動物たちがカラフトマスを獲って食べる。

川を遡上して力尽きたカラフトマスの死骸は分解されて周辺の森の栄養になる。

カラフトマスの遡上がこの知床の自然の生態系に一役買っていることは間違いないんだ」

そんな凄い魚とは思ってもみなかった。

正直なところ、まだ素人のわたしでは理解できなかったけど、

言葉を耳に通してぼんやりと感じたことはこのカラフトマスが偉いってこと。

「自分の身体が枯れるまで産卵を続けるカラフトマス。

オス同士、メス同士で切磋琢磨してより強いパートナーを探し求め、

少しでも丈夫な子孫を残そうとする産卵の営み。

人間にはない厳しさだよね。それが彼らカラフトマスの繁栄を支えている。

全てのベクトルが自分個人のためではなく、種全体の未来のために向かっているんだ。

この自己犠牲の精神は素晴らしい」


ケンさんはそう言って微笑んだ。

やっぱり言葉は難し過ぎたし、サングラスの奥の目までは見えなかったけど、

とても優しい笑顔だなってわたしは感じ取っていたのかな。

種の未来のため、か。

今までわたしの肌には触れることのなかった、すごい世界の言葉ね。

自分が自分以外の人のために生きているなんて、意識したことなかったから。

ふと鳥の声が聞こえて振り向くと、

川面をはうように飛んでいる鳥のスピードにわたしの目は追いつけなかった。

下流に別れていたレンジャーの宇佐美さんからの無線が入ってきて、

確かに下流に鮭を喰い散らかした形跡はあったが、特段何も異常は見られなかったと連絡があった。

上流にも特に異常なし、とケンさんが応えてそれでこのパトロールは終わった。