小説「再生の森に生きて」5話

知床の流氷




冬の間はあまり外に出る役はなかった。

なにしろ11月の初雪が降った後は急速に冷え込んでゆき、

車を走らせるのも大変な季節になった。

それでもケンさんたちは森や海の動物たちの調査に出て行ったけど、

わたしは決まって留守番になって、

春から貯めたデータの整理や瞳さんたち研究者のお手伝いをしていた。


それは助かったよ。

マイナス気温の世界ではわたしなんかが下手に外に出ても足手まといになるだけだから、

事務所横に積もってゆく雪を窓越しにデスクワークを続ける方がまだ気楽に感じていた。

一年分のデータは膨大で、打って変わってわたしは事務作業に忙殺された。

瞳さんが研究しているのは知床の豊かな自然がどこから来てどのように循環しているか、

ということについてだった。

秋アジのことはケンさんたちに教えてもらっていたから知ってたけど、

ある時瞳さんが流氷について教えてくれたのが印象に残った。





――流氷。まだ目にしたことのない景色ね。

1月後半か2月の初めにオホーツク海沿岸へとそれはやってくるという。

「あのね、のぞみちゃん。流氷ははるか北のオホーツク海からやってくるのよ。

流れ着く南のゴール、流氷の南限がこの知床なの。

びっくりしない?こんなに寒い知床が南なんて。

どれだけもっと寒くて厳しい自然がロシアにはあるかってこと」

そう言われると怖くなっちゃう。

年が明けるとマイナス10℃になることも当たり前になっていた。

もう自分一人じゃ運転も危ないから、真由美さんの車に乗せてもらって事務所まで来ていたし、

お休みの日も一人じゃ自由に外出できない。


こんな大変な環境なのにこれが南の果てなんて。

「知床の自然は知床自身が生み出すものだけじゃないのよ。

豊かさの最大の理由が流氷って言ったらのぞみちゃんは驚く?」

「もちろん驚く!流氷が?それを研究で解明したんですか?」

「ここ数十年ぐらいの研究でようやく分かってきたことなの。

大量の養分や植物プランクトンが流氷の中に閉じ込められて、

オホーツク海からこの知床に流れてくる。

流氷が溶ける頃にそれを餌にしようと動物性プランクトンが爆発的に発生するのね。

それを小魚が食べ、さらにその小魚をより大きな魚や鳥が狙い、

次第にもっと大きな動物たちが集まってくる。

このサイクルの偉大さって分かるかしら?

こうして知床は毎年流れ着く流氷の恵みによって豊かさを循環する。

こんなに素敵な食物連鎖って他にはないのよ」

瞳さんは目を輝かせてそう話してくれた。


「流氷はどこから生まれてくるんですか?」

「この近海でも出来るけど、大元はロシアのアムール川とオホーツク海からなの。

アムール川は中国とロシアを経て樺太でオホーツク海に注ぐけど、

オホーツク海の特徴は海全体が一種の湖のようになっていて、

海続きではあるんだけどカムチャッカ半島や樺太・千島列島が

ぐるりと周りを囲んでいるから海といっても湖みたいな形なの。

そこにアムール川を通して大陸の真水が流れ込むでしょう。

塩分を含む水は重いから海の底に沈んで、真水に薄められた水は軽くて表面に浮く。

水深50mを境に、上は薄い水で下は濃い水が二層に分かれているのが

オホーツク海のユニークなところね」

いつもわたしと他愛のないおしゃべりで盛り上がってくれる瞳さんが、

すごく専門的なことを話してくれている。


「冬になって水面が冷やされても下の重い水は動かなくて、

真水に近い上の軽い部分だけが凍るのよ。

対流の関係で流氷は南に動いてゆくと、

北海道のオホーツク海沿岸が湖の南岸のような地形になっているから、

流氷はどこにも行けなくて、この一帯が終着点になっているってわけ」

「えっ、じゃぁ、ここは昔から何もしなくても毎年必ず豊富な栄養が運ばれてくるってわけなんですか?

うらやましい環境なんですね」

「そうなのよ、のぞみちゃん。それがこの知床の特異な環境なの。

なんて言うのか、すごく恵まれた場所なのね。

流氷に閉じ込められた栄養の塊が自動的に流れ着いてはここで止まってしまう。

流氷の大きなドラマだけじゃなくて、その海の下では

カラフトマスやシロザケの遡上っていう別のドラマがあるでしょう?

ケンさんたちに教えてもらったと思うけど、

あの魚の流れも他の海からこの知床に栄養をもたらしてくれる貴重な流れね。

そっちの線は川を伝って周辺の森と大地に恵みをもらたせてくれる。

今では産卵だけのイベントじゃなくなってきて、オオワシやキタキツネたちの食餌としての意味、

力尽きた死骸が川辺の森の養分として土に帰ることの意味、

カラフトマスたちはそんなことまで背負っているみたいに見える。

太い流氷と、細い魚の栄養ライン。知床ならではのすごいことなのよ。

そのサイクルの規模の大きさにわたしは魅せられている」





その話があってから、わたしは流氷の存在を愛しく感じるようになった。

思い描くのは今年の流氷がやってくる光景。

今はまだ寒々しさだけが漂うオホーツク海に冬の主役がやってくる日はいつなのかしら。

そのことを宇佐美さんに話していたら、ちょっと変わった話をされた。

「それって富の搾取なのかもしれないね。

ほら、世界の南北問題で南の後進国と北の先進国の貧富の差に似ていると僕は思っているんだ。

知床が栄えるということは、その陰で貧しさに泣く地域があるのかもしれない。

凍りつくような冬に栄養も乏しく過ごす環境があったりしないかなって想像すると辛くなる。

話が暗くてごめんね、なんかそういう格差って自然界にもあるんだなって思った。

解決できない矛盾だよ、でもここの恵まれた環境に格別な美があるのは否定できないし、

それを追って僕自身もここに来ている。

経済でも豊かさに追われる先進国だけが幸せなんじゃなくて、

自然に囲まれてゆっくり生きる後進国の人たちのほうが本当は幸せなんじゃないか?とか、

考えると複雑なものですね。ごめんなさい、ただそれだけです」

3人の中で一番若いこのレンジャーはそう言っていた。

それもまたわたしには記憶に残る出来事だった。


2月のある日、沖に流氷が来ているという知らせを聞くとウズウズが止まらなかった。

早く見に行きたいけど、危なくて簡単に行くこともできない。

でも数日後には事務所のみんなで揃って行こうという話になって海岸線まで行くと、

そこにはもう海を埋め尽くす流氷の海、海、海。

圧倒される白の地平線。海はどこへ行ってしまったの?

この前までは海だった場所に白い大地と地平線が出来ている。

不思議な感覚に包まれてわたしはまばたきを繰り返した。

この流氷は動くという。その日の風や潮の流れによって場所を変える流氷。

とある朝、起きてみると流氷は立ち去って代わりにいつもの海が埋め尽くしている、

そんなミステリーみたいなことがあるなんて。


吹雪いていなくても吹き付けてくる冬の横風は遠慮なくて逃げ出したくなるぐらい。

でもこの時ばかりは、初めて目にする美しさにわたしは去れそうになかった。

瞳さんも西尾さんも寒さに負けて早々と車に戻ってしまった。

今日は別に流氷を調査するのが目的じゃない。

わたしは立ち尽くす、流氷の破片が宝石のように散りばめられたまぶしい景色の前で。

「見てごらん、のぞみ。あそこにゴマフアザラシがいる。ちょっと遠いけど双眼鏡で覗くと見える」

ケンに促されて指差す方向を見ると本当にいたよ!

柔らかいカキ氷みたいな流氷のソファーのうえでのんびりする一頭のアザラシが!

こんなに寒いのになんかまるで緊張感がない。

面白くってわたし笑っちゃいそうだったよ。

「カワイイ!」

思ったまま言っちゃった。そうしたらケンも笑って答えてくれた。

「でしょう?流氷の上の動物って寒さを感じないぐらいにかわいらしい。

氷の下の光景もすごいよ、潜ってみると浮かぶ流氷が迷路のようで、

そのさらに下は小さな生き物たちが神秘の国の住人みたいに暮らしている。

いいかい?ここの自然は厳しいものだけど、軽妙な笑い、

かわいらしさを忘れないでいるのが僕は好きだよ、たまらなく好きだよ」





そうだよね、ケン。なんかケンの感覚ってわたしに近い気がする。

わたしなんかよりもずっと上っていうか、もっと立派な位置にあるとは思うけど

根底はどこか同じなんだよね。

普通のことが最高。小さなことに喜びを見つけなかったら、何にも満足できないもんね。

人生もお金や欲望とかに惑わされがちだけど、本当はそんなのじゃなくて、

自然界の季節の移ろいを楽しむような面白さこそ、

いくつになってもいくら大人になっても忘れたくない大事なことじゃないかな。

知床に来て、ケンたちと動物保護の仕事をするようになってそんな想いが増してきた。


それから毎日の通勤の車でわたしは流氷を目にすることになる。

朝焼けの、夕焼けの、吹雪の中、快晴の中の流氷。

どれも遠慮なくフルパワーで、あるがままの姿を見せ付けてくれていて、

厳しさと美しさが混在する流氷の感情の豊かさにいつも心を震わせていた。