小説「再生の森に生きて」6話

幌別川




4月、知床に春を告げるフクジュソウが咲いた。

それでまた森の動物たちとの仕事が始まり、

わたしはオフィスからフィールドに出てケンたちと行動するようになった。

5月、あのソーセージ出没の知らせが入るようになった。

それも決まって観光客の多い岩尾別川沿い、本来だったら天然の餌もないような場所なのに、

ソーセージはいつもそこに陣取るようなカタチで姿を現した。

「やはりあいつは去年と一昨年のことを覚えている。もうクセになってしまったんだ」

わたしたちも頻繁にその一帯をパトロールしたり、直接観光客にエサをやらないよう呼びかけたけど、

ソーセージの態度が変わることはなく、その大きなヒグマの姿は毎日のように岩尾別川にあった。





ケンは観光客たちにイヤな目で見られてもゴム弾を放った。

命中するとゴム弾の痛さにびっくりしてソーセージは森の奥に逃げ込む。

これで少なくてもその一日は森の奥で大人しくしているはず。

ただ、見物を奪われた観光客たちは露骨にイヤな表情でわたしたちを見た。

「ヒグマを見るためにわざわざここまで来たんだぞ!」

そう声に出してわたしたちレンジャーを責める人まではいなかったけど、

冷たい視線は常に感じた。

きっとわたしだけじゃない、西尾さんも宇佐美さんも同じだったはず。


ゴム弾を受けたソーセージがたった3時間後にまた姿を現した、

という知らせが無線で入ってきたのはそれから1ヶ月も経たない頃のことで、

エゾシカの食害を防ぐためのネットを張っていたわたしたちが急行すると、

ソーセージは相変わらずの仕草で観光客に餌をねだっていた。

「有り得ないぞ!さっき撃ったばかりなのに!」

西尾さんが悲鳴に近い声を上げる。

そうなの、今までは少なくともゴム弾を撃たれたら

その日ぐらいは大人しく森に逃げ込んで姿を現そうとはしなかったソーセージ。

それがこんな短時間で戻ってくるとは予想もしていなかったから、レンジャーたちは動揺していた。

深刻な面持ちでケンがゴム弾を再発し、ソーセージを森に追いやる。

そして周りにいた観光客一人一人に頭を下げ、くれぐれも餌はやらないようにと

いつも以上に丁重にお願いして回っていた。
 
ケンだけにそんなことをやらせてはいけない。

西尾さんが他の観光客たちに頭を下げ、宇佐美さんも続き、

それにわたしもそれぞれ手分けしてそこにいた観光客全員を回ってお願いした。


観光客たちの車が離れ、ソーセージもいなくなった岩尾別川の流れが虚しく聞こえた。

何も聞こえないのが普通なのに、誰もいない川辺をおかしく感じるなんて

わたしもおかしくなっちゃったのかな、って思ったよ。
 
付近にヒグマの餌となるアリの巣がないか、手分けして調べてまわる。

でもやっぱりないよ。なのにこの場所にソーセージが現れるなんておかしなことなんだ。


「本当は銃なんか持ちたくないんだ」

その日、事務所へと戻る車の中でケンはそうつぶやいた。

「アイヌの先人たち、知床の住人たちは今まで銃に頼らないクマとの付き合いをしてきた。

その微妙な関係というか、築き上げてきたクマと人間とのギリギリの距離が、

銃という現代の武器によって崩れ去ってしまうんじゃないかとよく心配になる。

本当はこんな物に依存するのではなく、互いにもっと気を遣うことで

ちゃんとした共存ができるはず、距離が保てるはずなんだよ」

車を降りて事務所に着くとケンは所長の机に向かった。

「どうする、ケンさん?ヤツが出現する確率が今年は明らかに高くなってきている!

どうしてアイツは大人しく森でドングリを食べてくれないんだ!

このままでは本当に危ないぞ!こんな調子で今年の夏を俺たち、ちゃんと乗り切れるかな?!」

戻ってきたケンを待ち構えていたように西尾さんが不安を口にすると、

ケンは暗い表情をして答えていた。

「もうやるしかないよ、ニシ。所長に話は通してきた。クマ捕獲の罠をつくるぞ」





その翌日。宇佐美さんとわたしがエゾシカの死骸の回収を終えて帰ってくると

ケンと西尾さんが大きなドラム缶を倉庫から引っ張り出して何かの準備をしているところだった。

その大きな罠がソーセージを捕獲するものであることは直感で分かった。

ケンはソーセージをどうしようというの?捕らえてクマ牧場にでも送ってしまうのかしら。

それともまさか殺しちゃうための罠だとか?

ドラム缶の檻はソーセージがいつも姿を現す川沿いの森に据え付けられた。

何かが本格的に動き出す。そんな気配をわたしは感じ取っていた。


翌日、ケンと一緒に羅臼側の河川の遡上状況確認に向かった。

今年の遡上はまだ一部の川で始まったばかりだけど、

ダムの魚道がちゃんと使える状態にあるのかを調べてくる大切な仕事だった。

それがいざ調べてみると、海岸線から数百メートルもいかないうちにダムが設置されていて

上流まで遡上できる環境になっていない川がある。

魚道があるダムもあるが、土砂が入り込んでしまっていて機能していないのを見た。

それじゃ魚道の意味がないでしょう。

「これが知床の河川の実情なんだ」

諦め口調でケンが言って、いつもと違ってやや面倒臭そうに手早く仕事を終えた。

「のぞみもまさかこんな状況になっているなんて想像していなかっただろう?」

移動の車の中でケンがそう聞いてくる。

「おかしいよ!だって川下に大きな集落があるわけでもないし、

もし水害が起きてもそんなに被害があるとは思えないよ!ダムってそんなに意味があるの?」

わたしの勉強不足かもしれないけど、どうしてもそんな風にしか捉えられなくて。


「いや、意味はあるんだよ。

でもね、それと生態系への悪影響を天秤にかけた時に、

ダムの価値の方が重いかって聞かれたら、僕はやっぱりNOと言いたいよ」

もうそれ以上追及する気にもならなくなってしまった。

ウトロより羅臼の方がもっと状況が悪い。

これがあの大自然の知床の川かと疑いたくなるぐらいに不自然だと思った。

昔はそんなに治水に悩まされていたのかな。

他に何か人間的な理由があってダムが無駄に出来上がってしまったような気がして、

人間の仕事の方を疑いたくなるよ。

あまりいいレポートにはならなかったが、情報をまとめて知床峠を越えて戻ってくると

出発が遅かったからか辺りは薄暗くなり始めていた。

ケンは途中の幌別川のパーキングに車を止めて歩き出した。



「のぞみが好きだというこの幌別川をごらん。

羅臼と違ってもうカラフトマスだって遡上し始めているし、

何よりこの清涼とした空気は特別じゃないかな」

薄い暗闇が立ち込めてきていたけど、

早い時間から出てきたお月様のおかげでまだ視界が残っていた。

「ケン。カラフトマスも川を選べるといいね。

産まれた川が遡上できないぐらい汚れていたら他の川を選ぶけど、

それ以外は迷うことなく産まれた川に帰ってくるって教えてくれたよね?

でも、カラフトマスたちも自分が本当に上っていきたい

きれいな川を選ぶことができたらいいのになぁ。

人間の都合でいじられた川ばかりでしょう?

人気投票みたくさ、いい川だけ選ぶスタイルだったら面白いって言うか、

人間の失態ぶりがはっきり見えちゃうのにね」

半年間を一緒に乗り切ったから、わたしにはもうケンという人の優しさが分かっていたから

心を開いてしゃべれるようになっていた。

そうダラダラとつぶやくわたしをケンは微笑みで受け流してくれる。

「ほら、カラフトマスは素晴らしいんだ。

いつかも言ったよね、カラフトマスの自己犠牲の精神のこと。

昔ね、ある本を読んでいて素晴らしいストーリーに出逢ったことがあるんだ。

このカラフトマスに共通する話だと思っている。話してもいいかな?」





突然だけど、ケンがそんな話を振ってきた。

「聞かせてよ、ケン」

今日一日なんかすっきりしなかったから、ケンのそんな人の善さそうな話が聞きたくなった。

「ほら、月にはウサギがいると言われているね。

でもどうしてウサギが月にいるのかな。不思議じゃない?」

また本当に唐突なお話。まるで物語のような口調でケンは語り始めた。

「今は昔、共同生活で修行をしていたウサギとキツネとサルの前に、

衰弱し切った老人が現れて食事を乞いました。

キツネやサルは狩りができるのでちゃんと老人の前に食事を運ぶことができた。

でも、ウサギはそうはいかない。

何も獲れないし、逆に獣から狙われるだけです。

そこでウサギはキツネとサルに焚き木の用意をお願いした」

静かな川にカラフトマスが水を弾く音が鳴る。

もうそこまで暗闇が忍び込んできていたから、ケンの顔も見ずに耳だけを傾ける。


「キツネもサルもウサギのことを責めました。

どうしてお前は役に立とうとしないのかと。するとウサギはこう言いました。

僕には食べ物を持ってくる能力がないんだ、どうか僕の身体を焼いて老人に与えてください、と。

そうしてウサギは焚き木の中に身を投じたのです。

それを見た老人、実は老人に化けた神様が修行中の彼らの本心を試している姿だったのですが、

ウサギの悲痛な行動に涙を流してその死を悼み、ウサギの姿を月に映したのです。

全ての生き物にこのウサギの自己犠牲の精神を伝えるために。

だから今も夜空を見上げると、焼かれて煙にくすぶられたウサギの姿が月に見えるのです。

おしまい、おしまい」

話をまとめるとケンは持っていたタンブラーに口をつけて、もったいぶった。

「それって、アイヌの伝説とかですか?」

直感で感じたまま聞いてみる。

「いや、違うんだ。今昔物語のお話なんだ。知床ともアイヌとも関係ないよ」

「へぇ〜。今昔物語」

絶対アイヌの民話だと思ったのに。それにしても意外な本を読んでいるのね、この人は。


「月に刻まれたそういう物語があります。

カラフトマスもウサギも、無力なりに頑張って成果を出しているんだよ。

僕たちはそれを忘れてはいけないような気がするな。

アイヌの人たちがこの知床の大自然をカムイ――『神』、と呼んだのが頷けるよ。

カムイという言葉には、敬愛すべき偉大なもの、

人の力が遠く及ばないもの、という意味が強いようなんだ。

自然のステージの上では、人間は無力だからね」


わたしはその物語に圧倒されていた。

あぁ、カラフトマスや月のウサギのしたことに較べればわたしなんて小さい。

自己犠牲すら厭わなかったからこそ、永遠に生き延びる彼らの命。

それと引き換えわたしの毎日なんてあまりに小さい。

今まで小さかったものが、大きく見えてきた。

大きく見えていたものが、本当は小さかったと知った。

そうだ、わたしなんて、本当に小さいんだ。

「これって子供の頃に聞かされていた話らしいんだ、

すっかり忘れていたけど大人になってこの物語に再会したらなんだか衝撃的だった。

結構どうでもいい民話みたいに聞こえるかもしれないけど、

時間が経つにつれてその意味というか重さというか、

話の存在が僕の心の中で膨れ上がっていった。

カラフトマス、月のウサギ。

大人になってからこんなお話が僕の心を捉えて離さないんだよ。

そういう生命力の素晴らしさを知っているから、

今の僕はどんな苦難に立ち向かっても平常心で立ち直えると思うんだ」


ケンは言ったよ、そう言っていたよ。なんだかとっても素敵なお話。

ケンの優しさの原点は、物語に教えられたそういうところにあるのかしら。

そんなことを思い描きながら暗くなった幌別川を後にして、事務所に向かった。



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