小説「再生の森に生きて」8話

クマ射殺




二度目の捕獲は8月のことだった。

万が一と思って幌別川とウトロの間にあるゴミ箱近くにドラム缶檻を仕掛けておいたのだが、

ある朝事務所に入ってきたのは悪夢のような知らせ。

ウトロの住民から「クマが罠にかかっている」と連絡を受けたときのみんなの動揺はひどいものだった。


「ケン、もうそろそろ諦めてもいいんじゃないか?」

わたしの耳に入ってきたのは、

そのソーセージを迎えに行く車の中で所長とケンが話している声だった。

「もう限界が来ているのはお前も分かっているんだろう?

ケン、あれはな、更生できない身体に生まれてきてしまったヒグマなんだよ。

人事を尽くして天命を待つ。

まだ迷う余地はあると思うのか?俺はいつでも責任を取るぞ」

わたしが口を挟むような場面ではない。

黙っていると少し間があった後にケンがこう言葉を返していた。

「――所長。壊すのはいつでもできますが、命を育むのは歳月がかかります。

GPSをソーセージに付けます。これがわたしの最後の手だと思ってください」


前回に輪をかけてこっぴどくいじめられた上でソーセージは再び森に返された。

ソーセージの首にはGPS装置付きの首輪がつけられ、

事務所のパソコンから行動範囲を調べることができるように設定された。

するとその数日後からケンの表情に笑いが消え、

野外活動をわたしたちに任せてじっと事務所の中で待機することが多くなった。

「ニシ、宇佐美。いつでも実弾を撃てる準備だけはしておいてくれ。

ソーセージは岩尾別川を越えるぞ」

そう聞かされたときはやはりショックだった。

ソーセージはもう臆病な野生のヒグマではないのね?

幌別川を越え、ウトロ近くに再出没したという知らせが入るのも時間の問題だとわたしも感じていた。

そしてついに子供たちがいるウトロ小学校近くにソーセージが姿を現したとき、

ケンは実弾を発砲してソーセージを銃殺した。





それは正しい処置だったのかもしれない。

本来、野生のクマは人になつくことなど皆無で、

少しでも異質な音がすれば向こうから遠ざかってゆくのが習性だし、

ソーセージを習って人に近づこうとするクマなど他に現れなかった。


ソーセージと名づけられたあの一頭だけが、不幸にも観光客慣れしてしまったヒグマだった。

それもソーセージが自ら好んで取った行動ではない。

心ない観光客が投げ与えてしまった一切れの魚肉ソーセージが、

このクマの心を変えさせ、そして破滅の道へと向かわせてしまったのだ。

撃ち殺すという決断は苦渋の選択だった。


動物チームのリーダーであるケンのその判断は、

彼の日ごろの動物愛の精神からすればありえない行動で、

その苦しみはわたしたち動物チーム共通のものであったし、

彼にすれば最も望まない結論だったに違いない。

それでも頻繁に町に姿を現すようになってしまったクマに対してそうせざるを得なかった。

ケンの心を察するとわたしは心が痛む。

実際にケンの、いいえわたしたち動物チームが、さらには事務所全体として取り組んできたことは、

その最悪の結果を未然に阻止するためのあらゆる努力だったのだから。


なんとかソーセージを森に返そう、人間の怖さを教えよう、

観光客に周知させよう、自然のあるがままの姿に戻そう。

しかし何度懲らしめてもすぐに元に戻ってきてしまうソーセージの態度は変わることがなく、

このままではあの愛らしいクマがいつか人を怪我させてしまう、

互いにとって不幸なだけのそんな事故を防ぐための行動だった。

ソーセージを生け捕りにして爆竹をならし、

クマが嫌う唐辛子の痛さを身にしみこませ、深い森の奥へと帰した。

わたしたちにできる精一杯の愛情がそれだっただった。


しかし彼女はついにウトロの小中学校近くまで出てくるようになってしまった。

最悪の事態が起きたときには、ソーセージ以外のクマまでが

すべて悪者扱いされてしまうのが容易に想像できた。

そこまで考えた上での彼の最終的な行動が、実弾という苦渋の決断だったのだ。

ソーセージを射殺した後、死骸の処理、一連の報告書作成をケンは担当したが、

その仕事が終わった後で彼は長期休暇を申請して休みを取った。

誰もが彼の心情を理解していたのでそれは温かく受理されたのだが、

休みの途中で所長からみんなに報告があり、「ケンさんが退職します」と言われた。





誰もが耳を疑った。

知床愛、動物を愛でる気持ちが一番強いのはケンだと事務所の誰もが思うところだったし、

いくら餌付けの危険性を説いても聞かない観光客には憤慨していたが、

悪いのはソーセージじゃない、人間だよ、と彼はいつも言っていた。

ただその悪い人間も人間そのものが悪いんじゃなくて、

単純な欲望に動かされる原始の部分が醜いのであって、

正しい知識さえ教えれば本来は美しく輝くのが人間だとケンは言った。


別に人間に絶望していたわけでもないのに。

悪いシステムのままにしておくことこそが一番の悪であり、

自分のやるべきことはそのシステムを少しでも善くするだけだよ、と言っていた。

そんな前向きな言葉だってわたしに教えてくれたのに、

そのケンが知床半島の動物たちを放置して辞めてしまうなんて。


ケンの心は弱いものじゃない。

優しさの中に強い芯があるような人、

ちょっとやそっとのショックなんて呑み込んでしまう強い人なのに。

余程のことが彼の心のうちで起きているのだろうとは想像がついたが、

わたしにはとても信じられないことだった。


信じられなかったが、それから本当にケンが姿を現さない日が続くと、

みんなもケンが辞めたことを受け入れるようになった。

リーダー不在のまま、サブリーダーの西尾さんが動物チームの指揮を執って

それからの秋を乗り越えると、10月にわたしの知床での一年間は終わりを迎えた。



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