小説「再生の森に生きて」9話

鮭の遡上




ケンのことは東京に戻ってからもずっと心に残る出来事だった。

動物をいたわる気持ち、自然への敬愛、周りの人間への心配りに溢れた人柄だったケン、

そのケンがどうして天職ともいえるレンジャーの仕事を手放してしまったのか。

きっかけがソーセージの悲惨な件に間違いないと分かっていても、

ケンの取った行動は仕方ないものだと事務所の誰もが思っていたし、

あの判断が遅かったら今頃本当にクマと人との接触事件が起きていたのかもしれない。


放置してそれが本当に起こってしまった後では何をしようと手遅れで、

事務所の対応への批判、本来平和な存在であるクマへの過度の危険視、

知床への観光客離れ、あらゆる問題が降りかかってきたはずだから。

それは野生動物を殺めるという、レンジャーとしては最後の手段だったとしても、

状況を考えれば賢明な判断だったと思う。

知床を離れ、時間が経ち、第三者の冷静な目で見渡せるようになっても

やはり間違いではなかったと思えていた。





ケンはどうしてしまったの?

ケンは今どこで何を感じながら暮らしているの?

東京の生活の中でたまにそう思い返すことがあった。

事務所の誰とも連絡を取っていないと聞いていたし、

わたしが瞳さんや真由美さんとちょくちょく連絡を取っている中に

ケンの話は一度も出てこなかった。

責任感の強いケンのこと、きっと事態を食い止められなかったことを

自分だけのせいにして、自分を責めながら毎日を過ごしているのでしょう。

あれからケンが何を考えているのか、わたしは気になっていた。

自分から連絡を取ろうとしないってことは、もうあの知床の件を思い出したくないってことなのかな。

動物愛なしのケンは思い描けないから、

彼のそれからの毎日を何が支えているのか、わたしには全く分からなかった。


だからケンが帰ってきたニュースを聞いてわたしの心は大きく揺れた。

ケンとはほんの一年足らずの時間、一緒に仕事をしただけ。

それも彼のアシスタントだからそんなに深い間柄でもなかったけど、

彼の優しい性格は知っているつもり。

あんな事件が起きたら続きを知らずにいられないよ。


そうこう考えているうちにレンタカーは斜里を過ぎてウトロに入っていた。

車の数が多い。夏の間だけの華やいだ雰囲気。

事務所前に車を停めて周りを見渡すと、当たり前だけど景色も何も変わらないのね。

勝手知るドアを開けるといつもの瞳さんたちがいた。

久しぶりの人が変わらずにいるのって嬉しいよ。

物事は変わってゆくはずなのに、変わらないことの幸せっていうのかな。

瞳さんの横に座って久しぶりのおしゃべりをしていると、無線でケンの声が聞こえてきた。

懐かしい声を耳にして、わたしはついおしゃべりを止めてしまった。

どうやら今は幌別川沿いをパトロールしているらしい。

「あなたが来るって言ったらみんな会いたがっていたわよ。行ってあげて」





瞳さんに促されて幌別川へ車を走らせる。

そこは鮭の遡上が盛んでクマの出没率も高く、

よくレンジャーのみんなに連れられて環境調査をしに行った場所だったし、

わたしが知床で一番好きになった川。

川岸をさかのぼっていくと、やはりわたしは感じていた。

ダムのない天然の川の姿は美しいの。匂いが違うの。

幾人かの人の姿が見えてくるとその中にいたのは紛れもなくあの懐かしいケンで、

彼もわたしの姿を見つけるとこちらに歩き寄ってきてくれた。


「よく来てくれたね!また会えて嬉しいな」

月並みな言葉が一番嬉しい。

ケンの口から出たのならそれはウソじゃないって分かるから。

ケンの言葉をかけようとする。けど、何て言うのかちょっとつまってしまった。

そうしたら水面すれすれをカワセミが飛び去っていって

それがわたしの嬉しさを変わりに言葉にしてくれたみたい。

彼はあまり変わってないように見えた。

やつれたわけでも、知床を離れた間に太ってしまったわけでもない。

微笑を浮かべた表情は2年前と何も変わらない。

わたしはどうかしら?

都会に戻ってすっかりつまらない女になってしまったのかもしれないけど。

それから引き上げて事務所に戻るとみんなが今日はわたしの歓迎会だと言って

ウトロの所長の家でバーベキューを用意してくれていた。


翌日は休日だったから前々からみんな家族連れで知床湖にハイキングに行こうという話になっていて、

わたしはそれを楽しみにこの日にやってきていたの。

昨夜は早めにお開きになったからか、

朝だいぶ早く目が覚めてしまうと幌別川を泳ぐカラフトマスのあの音が無性に聞きたくなった。

ホテルから幌別川へと車を走らせると、

なんだかもうパーキングには車が一台停まっていた。

それが誰の車か分からなかったけど、川辺を歩いていると

キャンピングチェアーに座っている人影があって、

そんな芸術家みたいな佇まいはケンしかないと思った。

考え事をしているのか、ケンの影は微動だにしない。

近寄るわたしの足音に振り返るケンに向かって声をかけると、ケンは手を挙げて答えてくれた。

秋とはいっても朝晩の冷え方はもうたいしたもので、

上着を着込んだケンはタンブラーの温かいコーヒーを飲んでいた。

キャンピングチェアーに深々と腰をかけた姿はすっかり知床の景色に溶け込んでいる。

ケンの横に座り込んで幌別川の川面を覗き込む。

いるよ、今日もいるよ。

カラフトマスがばしゃばしゃと水面を跳ね飛ばして、流れの先へ先へと必死に進んでいる。





「ねぇ、ケンさん。わたし土曜日までボランティアで一緒に仕事してもいい?」

いきなり口に出すとケンは驚いた表情でわたしを見た。

「いいけど、せっかくの休みなんだから観光とかすればいいのに」

遠慮がちにケンが言うよ。

「それがね、いつかの一年でここら辺はすっかり行きつくしちゃった。

今回はみんなと再会して、あの頃の自分の気持ちを振り返るために来たの。

だからいいでしょ?」


遊びに来たんじゃないんだ。

みんなと働くのが楽しみだからなんか笑えてきて、ニコニコしながら言っちゃった。

「断る理由なんてないさ。のぞみがそうしたいというなら喜んでご一緒させてもらうだけだよ。

また楽しくなりそうだね!」

そう言ってケンは笑った。

笑ったからかな、河口でカモメの鳴く声が共鳴してきて、

それからカラフトマスも全身で水を打つ大きな音がいくつも聞こえてきた。



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