小説「再生の森に生きて」1話

再生の森に生きて




――ケンが戻ってきた!

そんな嬉しいニュースがケータイに飛び込んできた。

ウトロ動植物保護事務所の瞳さんから

「あのね、実はケンが2ヶ月前から戻ってきているの」とメールが入っていたの。

東京のオフィスビルで窓の外に目を向けてもブナや白樺の木なんて見当たらないから、

森で動物を追いかけている時のケンの微笑みは思い出せないよ。

でもこんなに心が躍る嬉しい知らせ。笑顔を隠せず、わたしは晴れやかに伸びをした。





あのケンが、ケンが知床に戻って来ている。

ソーセージと名付けられたクマの事件の後、知床から姿を消してしまったケンのこと、

わたしもずっと気になっていた。

あれからわたしも東京に帰り、普通の暮らしに戻った。

別に何も不満がある生活じゃない。毎日は何て言うのか、豊かなまま淡々と過ぎてゆく。

豊かなの。そう、とても豊かなの。

その知らせを受け取ってから、会社に向かう交差点で、お昼にめくる雑誌に、

シャワーを浴びる心地良い音が、わたしに知床の森を思い出させるようになっていた。


あの恵みの大地にケンが戻った。

止まる時間が色鮮やかな秋、神秘の厳白が深い冬、

大地が解ける音が聴こえる春、生命の盛りが駆け抜ける夏、

と一回りの季節をわたしもかつてその知床で過ごしたことがある。

記憶はめぐって止むことがない。

また知床に足を運んでみたい衝動に駆られるとどうしようもなくなってきた。

ケンに聞きたい。どうしてあの時、黙って知床を去ったのか。

何がケンを知床から遠ざけ、そして何が彼をまた戻らせたのか。

きっかけがあのソーセージのことに違いないとしても、

本人の口から気持ちを聞くまですっきりしない思いで一杯だったから。

その衝動が積もり積もって胸の頂点に達したとき、

わたしは女満別行きの航空チケットを予約していた。


海を越えて北の大地に降り立つのは数年ぶり、

一年の知床滞在を終えて東京に帰ったあの日以来のこと。

女満別空港の出口で吸い込む風は、9月とはいえ幾分か冷めたさを感じた。

レンタカーを借りて網走から斜里方面に車を走らせる。

丁度、小清水原生花園の駅に電車が停まっているのが見えてきて、わたしは思わず車を停めた。

ゆっくり歩いて駅の丘を上がると、東に西に、見渡す限りの平地。

しばらくこんな広大な風景に身体を預けることなんてなかったな。

木柵にもたれて頬に風を受け、濤沸湖とオホーツク海の合間の

緑色の景色を眺めていると、なんだか懐かしい感じが戻ってきた。

鳥や鹿を追って知床の山野を駆け回っていた頃のことを思い出してしまう。

そしてそれはいつもソーセージのあの痛ましい事件にたどり着いて、

ケンの笑顔と哀しみを際限なく回想してしまうのだった。





わたしがこの知床の地に刺激を求めてやって来たのは3年前のこと。

大学を出て東京の企業に就職してみたけど、

数年も働いていたらなんだか都会のOLが平凡に感じてきて、

実家の生温い便利さもわたしを堕落させるだけの気がして、将来のことをずっと迷っていた。

付き合っていた男の人とも別れた時だったからかな、思い切って新しい生活に挑戦してみようと、

一大決心で知らない世界の仕事を探していたときに目に入ってきたのが、

知床の動植物保護官のアシスタントの募集だった。

関東で生まれ育って地方の暮らしは経験したことがなかったけど、

契約が一年だけだったこと、ちゃんと寮や車も準備すると書かれていたから

好奇心だけで応募してみると、丁度そこの所長さんが東京に出張に来ることがあって、

面接を受けてみるとすんなり通ったからわたしは大冒険で知床に行くことを決めた。


それは家族には大反対された。

ろくにスポーツもしてこなかった都会の娘が知床のような極限の土地に行って通用するわけがないし、

お前は夏の北海道の涼しさとか美味しい食べ物だけを想像しているかもしれないが、

真冬の北海道のマイナス20℃の世界がどれだけ厳しいか分かっていないのだと散々に諭された。

わたしだって本当は知床なんかに行きたくなかったのかもしれない。

でも周囲に反対されればされるほど後に引けなくなって、最後は意地になっていたのかな、

結局未知の土地に一人で移り住んできた3年前のわたしがいた――。


スーツケースを抱えて女満別空港に降り立ったわたしを出迎えてくれたのが、瞳さんだった。

「よく来てくれたわね!歓迎するわ!」

そう言ってくれた瞳さんは知的でキレイな女性で、

なんか東京の人みたいに洗練されていたから違和感がなかった。

機上から見た女満別空港のあまりの小ささに正直驚いたというか、

不安さえ感じ始めていたところだったから、

瞳さんの存在はわたしを落ち着かせてくれた。

瞳さんの運転する車でウトロの町に入ると事務所の寮は町中にあって、

荷物はスーツケースひとつだけだったから荷物を置くとすぐに事務所に向かった。

知床半島のゲートシティ、ウトロの町から車で十分ほど、

幌別川の河口に程近い場所に建つのがわたしの勤務先となるウトロ動植物保護事務所だった。

合わせて10人ほどのスタッフしかいないこの小さな事務所で、

わたしの人生に大きな衝撃を与えることになる一年はスタートしたのだった。





着いたのは9月の終わりで、もう一ヶ月半には初雪が降って

暖房なしには過ごせなくなるという季節を目の前にした、秋と冬の狭間だった。

東京ではまだまだ半袖にジャケット一枚で充分なのに、こっちは冬の装いが必要になってきていた。

短い秋を経て、あっという間に冬本番が来る。

厳しい環境下での仕事になるから今のうちにここの暮らしに慣れておいたほうがいいと、

みんなが口を揃えて言った。


わたしの仕事はこの知床の動植物保護のアシスタント。

事務所には6人のレンジャーと2人の研究員、そして所長さんの9人が常駐していて、

わたしも入れると丁度10人になった。

レンジャーたちは2チームに分かれて様々な動植物の保護につとめていて、

わたしはケンさんをリーダーとする動物チームのアシスタントだった。



→進む



トップページ小説トップ再生の森に生きてトップ








Copyright (C) 2007 - Ken Box. All Rights Reserved.