小説「太史慈」1話

太史慈




――人は何度でもやり直しできる。だから人生は美しいのだよ。

地面を叩く雨音に目覚めると、私は決まってあの男を思い出した。


一度しかない人生にやり直しを考えるなど、私にとっては悠長過ぎる。

お茶を点てながら居眠りするような馬鹿げた話。

それがどうしてこうも長い間、私の頭から離れないのだろう。

あの男の強烈な個性が、十数年の時を経てもまだ心に振動を残している。


今朝は春の麗らかな陽光に包まれて起きたはずが、

久々にあの男の言葉を思い出していたのは、昨夜聞いた悪い知らせのせいだ。

何度でもやり直しができると大口を叩いた長躯の青年が懐かしくて、

朝露の庭に遊ぶ小鳥たちに思わず尋ねてみた。

「――人は何度でもやり直せるのかい?――人生は美しいものだったかい?」


あぁ、私もいよいよ人生を振り返る年域に達したのか。

でもたまには悪くはないだろう。

いざ、あの男の生き様に想いを馳せようではないか。


――あれは太史慈、字を子義。東莱郡黄県の人である。

やり直しができると笑いながら語っていたあの太史慈の無邪気な表情が、

私にはいつまでも忘れられないでいる。





疾走してくる馬がある。砂土を蹴飛ばし、泥水を跳ね上げて。

昼も夜もない。ただ道の続く限り。目指す洛陽の都まで。

成功を求めて。機知と覇気を信じて!ただ、生き甲斐を求めて!

大志は広く、理想は高く、その全身に気迫を漲らせて。

小官に甘んじることなく、現状に留まることなく、天性の気性に正直に。

虎さえ呑み込んでしまえ。龍さえ超えてしまえ。駆ける稲妻、それが太史慈という男。


「嫌な任務を押し付けられた」

そう考えるのが普通だろう。新入りの太史慈にどうしてそんな大切な役目が廻ってくるのか。

事は一刻を争う。

ここ東莱郡と隣の青州との言い争いがあるが、中身を聞けば大したものではない。

互いが互いの主張を繰り返しているだけで、正しい意見なんてないのだ。

譲り合うとか、相手の事情を考える、という考え方がないだけで、

要は自分たちの主張を先に洛陽に上奏したほうが正義となるような馬鹿げた話。


青州の使者はとっくに出発したと聞いている。

東莱郡側は上奏文の準備にもたつき、それがやっと今出来上がった。

一週間は遅れをとっている。

今さらどう急いでも青州より先に洛陽に着くわけがないじゃないか。

自分たちの怠慢が原因なのに、

その帳尻をまさかつい先日入ったばかりの太史慈に押し付けるとは。

太史慈の才能を引き出そうとしてのこと?

いいや、そうではないだろう。時間との勝負と分かっているのだから、

自分たちの怠慢による失敗が目に見えている。

その失敗の理由が若僧の太史慈にすりかえられようとしているのだ。

弱冠21歳の太史慈は、それを悪い仕事とは思っていなかった。

落とし穴を知らないわけではない。

目に見えている失敗が分からないほど馬鹿でもない。

ただ、太史慈は肌で自分自身を知っていた。

他人には不可能であっても、自分ならば可能にできる、と。

彼らは太史慈の力を知っていてこの役を命じたのではない。

任ずるのは誰でも良かった。

彼らはただ、自分の能力ではこの仕事ができないことだけ、知っていた。

誰かが失敗すれば責任を転嫁できる。

自分以外であればいい。ただそれだけを知っていた。


昼夜兼行で太史慈は馬を駆った。

従者も連れず、ただの一騎で都に急行した。

常識外の行動ではあるが、なにしろ青州の使者とは一週間の差がある。

団を組んで歩いては間に合うはずがない。

ろくに睡眠もとらず、馬だけを途中で替え、

早朝から深夜まで身体に鞭を打って許都へ急ぎに急いだ。



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