小説「太史慈」4話

太史慈 子義




「劉ヨウ軍敗戦の後、残兵をまとめていた父でしたが、孫策の人物に惚れ込んで配下になりました。

初めてまともな主君に巡り合えたのです。

自分の才能を活かすことができる場所を得たことで、

それからの父は顔つきが変わるぐらいに満たされていました。

戦場では孫策とのように強引な一騎討ちをするのではなく、軍兵を統括する将軍役を務めました。

孫策に従ってからの父は落ち着いたと言われますが、それは満たされていたからです。

派手な活躍がなくても、心は幸せそうでした」


父の英雄譚を語る息子。一呼吸おいて杯を空けた曹ヒが続いて問いかける。

「太史亨殿。先にも言った通り、今夜は魏も呉も関係なく、

一人の男と男との雑談だから聞いてもよいかな?

孫策が亡くなった時に父・曹操からなのか、他の誰からなのか、

いずれにしても魏から尊父へ登用の打診があったそうではないか。

こちらの誰に聞いても分からず終いなのだが、そんな噂を聞いている。

敵国の魏から声をかけられるなんてなかなかあるものではない。

それでも結果として、尊父は呉のままで病死を迎えている。

そこにはどんな物語があったのかな。英雄らしい伝説を残されている」

「曹ヒ殿。実は私もそのことは詳しく知らないのだ。父・太史慈が残した唯一の謎がそれだ。

息子にも母にも誰にも伝えることなく、父は呉に残る決断をしている。

魏からそんな誘いがあったことは間違いなく、その返事と思われる手紙も残っている。

そこには父の直筆でこう書いてある」





――人は何度でもやり直しできる。

与えられた環境に耐えてこそ真の男、という言葉も理解できるが、

やはり人は何度でもやり直しできるのだよ。

求めるものがそこにないのなら、ある場所を求めて移るのは自然なことじゃないかな。

それはひどく勇気のいることで、失うものも多いが、

やり直しが叶った後の満ち足りた心に比べればわずかな損失でしかない。

孔融や劉ヨウに仕えていた時のことを振り返ってみると、私はやはりそう思うんだよ。

我が心の主・孫策の死去というこの状況下で、やり直しを勧めてくれる君の真意は伝わってくる。

俺にもう一度輝く場所を与えてくれようとしているのだろう。

君は君の利益のことだけを考えているかもしれないが、

こんな俺のことを覚えてくれていた君の心が何よりありがたいよ。

だが、俺はもう生涯の居場所を得た。

やり直しは納得がゆくまで何度でも繰り返せばいいが、

一度自分の本当の居場所を得たのならそこに留まるのもいいと思う。

俺は呉に留まる。俺を拾ってくれた孫策への感謝だとか、

今まで呉から受けてきた恩義とか、ここにいる家族、自分の健康や年齢のこともある。

これが俺の最後の答えだ。

君の気遣いに最高の感謝を捧げたい。

人は何度でもやり直しできる、だから人生は美しいのだよ、と

いつかの俺は母の言葉の受け取りを言ったね。

今、自分の人生を通してその言葉も、もっと深い意味にたどり着いたのだと思う。

やっぱり人生は美しいものだった、って。なぁ、分かってくれるかな。



「――父のその手紙が、一体誰への返事なのかが分からないんだ。

手紙が家に残っているから、差出人には届いていないはず。

そんな文章だ、よほど親しい相手に出そうとしたものだろうが、

父が魏の誰かと親交があったとは聞いていない。不明なんだ。

それはともかく、父の真情が伝わってくる手紙だから私は大事に預かっている。

いつかそれを本来の差出人に私から伝えられたら幸せだな、と思っているよ。

一体何があったのだろう。

親の心を子は知らず、子の心を親も知らず。父・太史慈が残した永遠の謎なんだ」

「本当だな。私にも分からない。

きっと尊父とその誰かと、二人の間でしか分からない話なのだろう。

とにかくそういう心境があって英雄・太史慈は魏に降らず呉に残った、ということか」

「はい。私に言えることはその事実だけです」

「太史亨殿、やはり君の人生も父の偉大さに多少なりとも振り回されるようだな。

私と一緒だ。なぁ、聞いてもいいかい?偉大な父という壁を越える自信はあるのかな?」

「正直、ないよ。父とは別の分野で生きてゆかないと、

父以上の武功なんて残せるわけがないじゃないか。

私が誓うのは、父の名を汚すような恥ずかしい様はしないって、それだけさ。

二代目なんて、所詮そんなものじゃないかな」

「ははは、よく分かっている。私もだよ、父・曹操の偉大さを越えられるものか!」

二代目同士、共感するところがあるようで、

国を超えた二人の友の酒は滑らかに進んでいくのだった。



孫策が死んだ。衝撃、それは俺の人生を覆すほどの衝撃。

永遠最後と仰いだ主君がいなくなるとは!

俺よりも年下の男だったから、孫策以外の主君に仕えることはもうないと思っていたのに、

ようやく掴んだ満ち足りた主従関係がなくなってしまうとは!

そんな折、一通の手紙がきた。

開封するとそこには「当帰」という名前の薬草が入っているだけ。

送り人の名を聞いて俺は心を飛ばした。それは、魏の曹操だと言う。

――あぁ、あの男は曹操だったのか!

なんという驚きか。

若かりし頃、洛陽の酒屋で会ったあの男が魏の英雄・曹操だったとは。

そして、もう十数年も前の出来事を、俺のことを覚えているとは。

「当帰」という名の薬草はあの時に曹操が言った二人の間の秘密。

当帰とは元々の場所に帰れ、つまり青州生まれの俺に青州に帰れ、という意味だ。

そして、青州を今治めているのは曹操自身じゃないか。

この謎掛けは、俺のいる魏に降って俺と一緒に天下を駆けよう、という曹操からの誘いだ。

俺は悩んだ。今一度、英雄を求めて冒険しようか。

とはいえ、世話になった呉を敵に回して魏に降るのは正直、引け目がある。

孫策の後を継ぐ孫権も名君になる器に違いないが、

あの曹操が、当代きっての英雄・曹操が俺に声をかけてきてくれている。

悩む、悩むよ、これは。ただ、俺の心は最初から決まっているじゃないか。

手紙にしたためてみよう、そこに心の全てがある。



――太史慈よ、君が呉で病死したという知らせを昨夜聞いた。

衝撃だったよ、俺よりずっと若い君だったのに、

ついにこの世で再会する機会に恵まれなかったな。

俺の手紙を受けても魏に来なかったのも、それは君の選択。

何も言うことはない。

結局、君からは返事すら届かなかったが、

それは魏の曹操と直接やり取りしていたら不審に疑われるだろうから、当然のことだな。

想像でしかないが、君の真意は伝わってくるようだよ。

なぁ、もう君の人生はやり直しが必要ないぐらいに、美しかったのだろう?

あの小雨の薄汚れた酒屋の片隅で、人は何度でもやり直しできる、

だから人生は美しいのだ、

と笑っていた若かりし頃の君のことが、俺は幾つになっても忘れられない。

君が生きて感じただろう、その言葉の意味のそれからを聞きたかったな。

君が亡くなってもう直接耳にできないとはいえ、

君からでも君の息子からでも、俺か俺の息子に伝えて欲しい。

それは叶いそうもない夢かな?

良い思い出だよ。洛陽で偶然出会い、心を通わせ合った。

この朝の庭に遊ぶ小鳥たちに何度でも君とのことを語って聞かせたいって思うぐらいさ。

私は英雄・太史慈のことが、いつまでも、いつまでも忘れられないでいる。









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