小説「時の流れの恐ろしさ」10話

人生の幸せ




西葛西の夜風が気持ちいい。

真子は隣の寝室でかすかな寝息を立てて眠っている。

妨げないように静かに窓を開け放ち、

部屋の電気を落として酔い覚ましの氷水を飲んでいる。


眠ろうと思っていたのに、結局電車の中では眠れなかった。

後から後から、考えることが湯水のように湧き出してきた。

少年の頃は、三十歳になった自分が想像できなかった。

それだけの年齢になれば、すっかり少年の心がなくなっていると決め付けた。

だが、そんなことはなかった。今も私は少年のままだ。

変わったが、変わっていない。

それは彼女も同じ。時の流れで少女は変わる。

そして、彼女自身は何も変わらない。


なんて気持ちのいい風が入ってくるのだろう。

マンションの前の公園から、ベランダを通じて風が流れてくる。



彼女へ最初言葉を投げかけた時から、

彼女を口説こうとする気持ちなどさらさらなかった。

彼女のことが嫌いなわけがない。初恋の人は永遠に好きな人だろう。

興味がなくなっても、好きでないわけがない。

好きなのだ。過去の思い出の人として、いつまでも好きだ。

それなのに、口説こうとする気持ちが全く起きなかった。

電車に乗ってから、それが何故なのかを考えた。

男だろう、私も男だろう。

あの初恋の少女とSEXしたいと考える頭はないが、

口説こうとするのが男としての普通なのではないか。


駅をひとつ進むだけの時間で、簡単に答えが出た。

私は、真子がいるだけでもう充分なのだ。

負け惜しみではない。私は今の幸せをもっと感じてもいいのではないだろうか。

心地の良い西葛西の夜風。真子のいる、西葛西の風。

きれいに洗い流せ、私のつまらない酔いを。



ありふれた生活に突如訪れた劇的な一夜。

夜が明ければ、またいつもの毎日が待っている。

昨夜のことは実感を伴わない夢の出来事になった。

あやふやな幻へと想いを馳せる余裕はなく、

目が覚めれば毎日の現実が私を取り巻いている。

「――昨夜はみんな集まったの?」

「僕の他に五人かな。あまり集まらなかったよ」

朝、キッチンで煎れたてのイングリッシュブレックファーストに

なみなみとミルクを注いでいると、背中に真子が話し掛けてきた。

私は振り向かずに答える。動揺を見抜かれてしまっては二重の損害になり兼ねない。

過去を失い、現実にもヒビが入るだなんて嫌だ。

「森君と山さんと、あとは?」

真子も何人かは会ったことがあるので知っている。

「足利と青田と日高。みんなバトミントン部だった奴等だよ。

なかなか面白かったよ、今度のバーベキューに水風船投げすることになってさぁ……」

「えっ?水風船の投げ合いっこ?好きね〜そういうの!」

真子が話を合わせてくれるから、あの昨夜のことでも口にできる。

真子にかかれば昨夜のことも何故か楽しい同窓会だったと話ができる。


寝起きの頭、昨夜の夢物語、いつもと変わらぬ真子の微笑み。

なんだか今朝は駄目だ、よく分からない。

よく分からないけど、普段の流れにずるずると引き込まれてゆく。

これもまた、押し寄せる時の流れに飲み込まれる瞬間なのだろう。

さぁ、考える暇はなく日曜の朝の散歩に出よう。

運動がてら真子と葛西臨海公園に歩きに行って、帰ったら掃除をしなくては。

昼はどこかに美味しいパスタを食べに行こうと話しているから、今朝も大忙しだ。

「さっ、食べ終わったら歩きに行くよ!」

私は陽気に真子を誘ってみた。週末は、こうでなくちゃいけない。



今日は日曜日だから、真子と一緒に過ごす一日だ。

いつものように、私は満たされた時間を妻と過ごすのだ。

天気が良かったので葛西臨海公園へバトミントンのラケットを持って行き、

広い芝生の上でしばらく気持ちの良い汗を流した。

帰ったら掃除と洗濯を二人で分担して終わらせ、

お昼になったのでちょっとだけ奇麗な格好をして駅に向かった。

真子が見つけた銀座の美味しいイタリアンレストランに行ってみよう。

「ねっ、これ見て、前菜に、パスタ・デザート・コーヒーか紅茶までついて、

なんと千四百円だよ〜!銀座なのに良心的ですよね〜。

見て、見て、このパスタの写真!

このゴルゴンゾーラソースがくっっっさそう〜で美味しそう〜。

デザート!デザート!!びっくりなことに、なんと三種類の中から選べるんですよ〜。

しかもほら、ホームメイドのアイスクリーム添え!

女心を分かっている店でしょう〜。

いい?私が二人分のオーダーを選んであげるから……」

聞いているのが苦痛に感じないから不思議だ。

しゃべり続ける真子の口。

とにかく、真子の言う通りにしていれば美味しいものが食べられる。

「……そうだね〜。三時のお茶はどこでしたい〜?行きたいお店はある〜?」

「え〜。う〜んと、どこかお勧めはあるのかなぁ?」

「じゃぁ、ホテル西洋銀座の地下にしましょうか〜。

あそこだったら、絶対に美味しいケーキがある!

ほら、ずいぶん前にセザンヌっていう美味しいの食べたでしょう〜?

今日もセザンヌでもいいし、でも、あそこなら絶対に他にも美味しいのがある。

私はね〜ティラミスにやっぱりアイスクリームを添えてもらって、

大丈夫、一流ホテルだからそのぐらいのワガママはちゃんと聞いてくれるの!

それでね、ミルクティーに……」


話が長いので途中で割愛するが、とにかく真子はご機嫌らしく、ひたすら話し続けてくれた。

私は話をなんとか落ち込ませないようにしようと、

とにかく真子にしゃべらせるように会話を振ってみる。

なんだろう、あのささやかな酒席とは違い、このささやかなお出かけは随分と楽しいのだ。

真子はまたいい店を選んだ。ランチが最高なら、その後まで楽しく過ごすことができる。

デパートをぶらついていて、探していたストッキングがあったと騒いでいたし、

ぴったりサイズのブーツがあったと小躍りしていた。

真子は凄い情熱をみせてショッピングを続けるが、

二時間も歩き続けるとさすがに私も疲れてしまった。

私の足取りが重くなったのを目ざとく察知したのか、

真子は四丁目交差点からホテル西洋銀座まで真っ直ぐに歩き、

行きに話していた店でお茶をしようと言う。

ここでも真子は、昼に食べたパスタとニョッキの味について散々評価をし、

批評をし、楽しそうにしてくれた。

こういう私のような男性が苦手とする話題で真子が一人盛り上がって楽しんでいる姿は、

私にとって決して不愉快なものではない。

真子の楽しそうな姿を見ていると、平日の平凡な仕事ですり減らされた私の心も、

じわじわと満たされてくるからだ。


話の途中で、真子が楽しそうにトイレへ向かった。

それにしても――。

私は、幸せなんだな。今が、幸せなんだな。

真子がいる、それだけで私の一日は意味を持っているような気がしてならない。

さらに言えば、これは一日だけの話ではない。

真子がいるだけで、無意味な人生ではないと思うことができるのだ。

目の前に真子がいないと、昨夜のことに考えが及んでしまいそうになる。

私は今晩借りる映画は何にするかな、と無理矢理考えて、今に集中しようとする。

でも、これぐらいは思ってもいいだろう。

彼女も、やはり私のように幸せな今日を誰かと迎えているに違いない。

昨夜の微笑みが、頭の中をかすめる。あの微笑ならば、安心だ。


いやいや!このティラミスの、舌に乗せた途端に溶けてしまうかのようなスムーズさと、

はっきりした卵の味、それに相性の良いバニラアイスと一緒に食べるからこその感動は

なかなかのものだぞ、と自分に言い聞かせて、私は真子を待つ。

せっかくの楽しい日曜日だから、今は真子とのことに専念したい。

今は真子だけが私の世界だ。

真子が戻ってくる。入口から入ってくるのが遠目に見える。

私はさっきまでの自分に戻って真子を待つ。

真子がゆっくりと近寄って来て、そして、私ににっこりと微笑んだ。



――私は分かったのだと思う。真子のその微笑みは、まさに女神のそれだった。

十数年前、初恋の少女に見ていた微笑み、昨夜、最後に一瞬だけ見た微笑み。

そして今、私の真子が見せた微笑み。

どれも、本物の喜びがこもった、女神の微笑だった。

私は、愛する妻の女神の微笑みに、最高の感謝の気持ちを贈った。

そうだ、私には――真子がいる。



変わり映えのない一週間が始まった。

昼間は会社に貢献する企業人として、

社会に貢献する社会人としてなかなか満足な仕事をし、

家に帰れば妻の幸せに貢献する家庭人としてかなり素敵な時間を過ごす。

週末には妻と二人で出かけ、広尾や代官山のトラットリアで美味しいイタリアンランチを楽しみ、

映画でも見れば、妻の満足そうな笑顔、まぁそれ以上幸せな一日はない。

そんな毎日に、あの夜の影響など微塵もない。

普段の毎日は現在の色に染まっていて、過去の出来事は遠い他人事に見える。

今日という一日にあるべきなのは、今の状況を立派に生き抜くための能力だ。

その能力を備えた私が過ごす今の毎日は、とても満たされていると思う。

胸に現在の大きな幸せを抱き、

そして過去と未来への少々の不思議を抱え、毎日が過ぎて行く。

そんな生活に不満はなく、やはり私は幸せなのだろう。





――そんな日々を送る中で、私はついに私なりの結論に至った。

あぁ、また間違っていた。また思い違いをしていた。

何度も何度も、ため息が出る。

断じて、あの頃が最高などではなかった。

この満たされた現在、これ以上何ひとつ望むべくもない生活。

満たし、満たされ、満ちている。

そうだ、実に分かりづらく、実感はないのだが、

今この瞬間が私の最高のステージなのだ。

私はこの三十年の中で様々な経験をし、

色々な感情と知り合い、今までを生きてきた。

過去に流した汗や涙のひとつひとつが

現在の糧となり、礎となり、今ここに私はいる。


今までにあった無数の分岐点、ひとつでも違った道を選択していればこの現在はない。

そう考えれば、今こうして触れ合っている人生がいよいよ眩しく見えてくるではないか。

そうだ、時の流れが奇跡というならば、この私自身が奇跡だ。

流れた時間の軌跡が奇跡に見えるのと同様に、

時を経て今ここにいる私自身が奇跡の存在なのだ!

誰もが、今が奇跡だ。それぞれの人生、様々な出来事があり、今のその人がいる。

そこに思い当たった時、この世の中は奇跡に奇跡が絡み合ってできているのだと知った。

人生、そんなに簡単なものではない。そんなに甘く見てはいけない。

もっともっと世界を重く見よう。

毎日は惰性でできているなどとは、とんでもない思い違いだ。

全ては奇跡、この世の中は奇跡の集まりだ。


あの頃の少女の思い出は、昔と何も変わらず愛している。

そしてなんだか今の私なら、遠くからではあるが、

大人の女性になった今の彼女のことも愛し続けられると思う。

過去も現在も、そしてこれからも、少女のことを愛し続けられると思う。

真子を愛する感情とは別のところで、見守っている。


時の流れに日々は変わってゆく。

しかし、美しい思い出だけは時の流れの力をもってしても変えることはできない。

過去に得てきた宝物は、間違いなく私だけのものだ。

時の流れの影響を受けないものがそこにあった。


私は、子供の頃から作家であるところの自分自身ばかりを夢見てきた。

一体それは何だったのだろう。

どうやら、それはあくまで私の人生における

成長の一過程であって、人生の意味そのものではなかった。

昔は、作家という特別な資格を手に入れなくては

生きている価値がないとさえはっきり思っていた。

今は、作家になりたいという夢などどうでも良くなった。

生まれたからには、もっと純粋な己の人間的完成を目指すことに今は意味を感じている。

閉ざされていた私の世界は、これで一気に開かれた。


妻を愛し、今の仕事を愛し、毎日の生活を愛する。

過去を愛し、現在を愛し、どんな未来だろうとも愛することができる気がする。

毎日が偉大な奇跡、全てが奇跡、奇跡の連続。

今日をなんとか生き抜く、それだけで今日という一日に価値はある。

一日は、人生は、奇跡に奇跡が重なってつながっているもの。

そんな人生に満ち足りぬものなど、元々なかったのだ。

さぁ、歩き出すぞ。何も恐れるものなどない。

私は奇跡のような人間、今が栄光の時だ。

時の流れの恐ろしさなど恐れるに足りず!


私はただ漠然と生きているのではない。

過去に出会った全ての素敵な出来事、全ての歪んだ出来事があり、

清濁どちらも飲み込んだところで、今の自分がいる。

そういった全ての背景を背負った上で、今を生きなくてはいけない。

喜びも哀しみも、どこまで行っても存在するもの。

どちらか片方だけということはない。今を壊すのは一瞬でできる。

どうしてもさみしく見えがちな今を見限るのもいいが、

今というのは全ての過去を背負った上にある今だ、奇跡の今だ、

与えられた今を大事にしようではないか。


時の流れの恐ろしさなど恐れるに足りず、私はこの奇跡を重く思う。



「時の流れの恐ろしさ」 完



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