小説「時の流れの恐ろしさ」2話

私の妻




――いつもの音がする。

眠りの意識の中で聞こえてくる遠い水の音。

耳当たりも心地良い、水の安定した音楽。

真子が洗面所で身支度をしている音だ。私は毎朝これで目を覚ます。

今朝も真子より先に起きられなかった。

たまには私の方が先に起きよう、と毎晩眠る前には思うのだが、

どうも朝は苦手で先に起きた例がない。

水の音を聞きながら私はしばらくベッドの温もりに甘える。

音が止まるとしぶしぶ起き上がり、気だるくリビングキッチンに向う。

ガスコンロでお湯を沸かし始め、顔を洗いに行く。

「おはよー」

寝起きの冴えない声を出して洗面所に入ってゆくと真子が振り返る。

「おはよぅ〜」

朝の一番からこの人はこの人だ。

私とは対照的に、すがすがしい表情でにっこりと微笑んでくれる。

真子と入れ違いに洗面所を使い、リビングキッチンでパンと紅茶の朝食を取る。

毎朝の日課とは不思議なもので、気が付くとそれをしている。

今朝も私はだらだらと紅茶を飲みつつ朝刊を読む振りをして、

寝室の鏡の前で化粧をする真子を横から眺め、会話をしていた。

あまり広くない2LKのマンションだから、寝室のドアが開いていれば

鏡の前に座る真子がリビングキッチンのテーブルからちょうど見える。


こうして毎朝、リビングキッチンと寝室で会話をするのが日課になっている。

これは秘密だが、私にとって会話は目的ではない。

新聞を読むことなんてどうでもいい。私は真子の美しさに見とれているだけなのだ。

私の妻は万人に一人の女性だ。外見は抜群の美人で、スタイルがいい。

整った目鼻立ち、鼻から頬の線に溢れるなんとも言えぬ気品。

華やかさがあり、神々しさがある美しさで、

しかも冷たい感じではなく、温かさと子供っぽい親しみがある。

彼女に見慣れてしまったら、世の他の女性達から美を感じることに鈍くなってしまった。

決定的な美が真子の髪にある。

その柔らかさは、オムレツの中身のフワフワに仕上げた卵の心地だ。

真っ直ぐに整ったロングヘアは、繊細な白糸が集まって流れる小滝の美しさに似て、

彼女の真摯さを表している。

真子の髪は、彼女が持つ美しさの全てをそこに集約したかのようで、

子供特有の艶やかな髪にも勝る輝きを放っている。





夫として、恋人の男性として、外見以上に愛してやまないのがその性格だ。

真子は、まるで私だけが世界であるかのように私を構ってくれる。

誰にとっても人生のパートナーとは心の大きな割合を占める存在であることに

違いはないと思うが、だからと言ってそれのみで人生が完結するものではない。

他の様々な物事に囲まれて生きる中で、最も多い時間を費やすことになるので

最も心を傾けるようになるのだと思う。


しかし私の妻は、何をしていても私とのことに当てはめて考える性格だということが、

毎日共に暮らす生活の中でひしひしと伝わってくる。

彼女にとっての世界とは、私とのことが全てらしいのだ。

私にとって都合が良いといっているわけではない。

そういう心を持った人と一生を共にできることが何よりの幸せだと言っているのだ。

真子の才能には目をみはるものがある。

料理や買い物、遊ぶことにかけてまで彼女は一番お得なものを選ぶセンスに長けている。

夫としての贔屓目を抜きにしても、妻の才能が平均を遥かに上回っているのは間違いなく、

本気で何かに打ち込めば必ずモノにできるはずなのだが、

何故かその情熱は夫である私だけに注がれている。


こんなに幸せなことがあるだろうか。

私にはもったいないほどの女性が妻となり、一生側にいることを誓ってくれているのだ。

その喜びが分かっているから、私も妻との生活こそが己の生き甲斐だと、

真子こそが人生で唯一無二の宝物だと心から思っている。

私にとり、真子と時間を共有することがかけがえのない人生の喜びだ。

――そうこう考えている間に、化粧を終えた真子が鏡の前を離れた。

あぁ、朝のショータイムはもう終わりだ。

やれやれ、と私もスーツに着替え、慌ただしく身支度を整える。

このスーツやネクタイも一緒にデパートへ買いに行って、

真子に見立ててもらったものばかりだ。

会社のみんなによく服のセンスを誉められるが、

別に私にセンスがあるわけではなく、全部真子のお陰だ。

細身で格好の良いスーツに身を包むと、会社に行くのも少しは楽しくなる。

真子がいるから、何もかもが喜びに感じられる。


「じゃ、今日も八時ぐらいになると思う。行ってきます」

「水曜だから私もそのくらい。それじゃぁね」

水曜日は真子が通っているクラシックバレエのレッスンがある日だ。

仕事が終わってからのレッスンを彼女はもう七年近くも受けている。

「うん、それじゃぁ」



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