小説「時の流れの恐ろしさ」7話

初恋の女性




あれは私が十七才だから、高校二年の秋のことだ。

私は一人の少女に生まれて初めての恋をした。


テスト前で部活のない放課後、教室の後ろでクラスの仲間と馬鹿話をしていた時だった。

他に誰もいない教室に私たちの騒ぐ声だけが響き、静かで心地のよい時間が流れていた。

それは嵐の前の静けさ。

哀しみと喜びの嵐に心を吹き荒される前の最後の静けさだった。


「――遠藤クン」

突然、廊下から可愛い声がして私の友達の名前が呼ばれた。

無意識に私は声の方を振り返っていた。

次の瞬間、私の心に見知らぬ感情が湧きあがった。

――見知らぬ感情。それまで感じたこともないほど強いもの。

芽生えると同時に光の速さでそれは膨張し、

私の心を隅から隅まで、私の全身を脳天から爪先まで、新しい色に染め替えた。

私の心身がその少女で満ち溢れるにはたったの一目で充分だった。

少女の一瞬が、私の心に永遠を刻んだ。――私は恋を、初めての恋をしたのだ。

まさに一目惚れだった。少女を見た瞬間からたっぷり三秒間、私の世界は止まっていた。

美しい少女だった。美しく、美しかった。私は生まれて初めて人を美しいと感じた。

私の心に今も鮮明に残るその時の記憶。

十代の少女特有の、大人の女になる寸前の美しさ。

子供ではなく大人でもない、しかしその両面の美点、

少女のあどけなさと女性の美しさを兼ね揃えた、純粋で健康的な素顔の美しさ。

咲き始めの春桜のような、柔らかく、若々しい美しさ。

――決して忘れない。いつまでも忘れられない。私の初恋、一目惚れの恋だった。





その娘は遠藤に軽く手を振り、遠藤も手を振り返した。そして少女は通り過ぎて行った。

あとで、彼女は一年生の時に遠藤と同じクラスにいた娘だと知った。

当時の自分を振り返れば、それまでの人生は平凡なことばかりだった。

自分の人生に特別な何かがあると意識していなかったし、期待もしていなかった。

しかし、少女の一瞬が私の全てを上下逆さまにした。

私は現実の人生で、初めて生きることの喜びを感じた。

少女が感じさせてくれた。

私の心に、人生に、始まりの風を吹き込んでくれたのだ。



――十数年ぶりにたっぷり三秒間、私は気を失っていたらしい。

誰も私が酔っているものと思い、気が付かなかったことだろうが。

私の初恋の女性、白沢美恵子がそこにいた。

私はアルコールが入った時よりももっと深い酩酊状態に堕ちたのだと思う。

目の前の光景がよく理解できず、まるで現実の世界に生きている心地がしなかった。

時の流れを無視して、幻が姿を現した。幻は私に近付いてくる。

有無を言わさず、どんどん私の世界に足を踏み入れてくる。

堕ちぶれた今の私を騙したところで何の得にもならないだろうに、何故か私に近付いてくる。

そして、幻が、あの初恋の少女が、私の斜め前の席に座ったのだ。

彼女がいる。ここに彼女がいる。

息遣いも聞こえてきそうな程近くで、横の友達と話をしている。

あぁ、信じ難い。信じ難い、まるで信じ難いのだが、

どうやら彼女は私の妄想が創り出した幻ではないようなのだ。

彼女が隣の女友達と話し始めた声をきっかけに、

私はようやく冷静な状態を取り戻しつつあった。


彼女の美しさは相変わらずだった。

卒業以来、十二年間彼女にまみえる機会がなかったが、

その程度の時の流れで変わる彼女ではなかった。

同級生だから、私と同じく三十歳になったのだろう。

確かに当時のような若々しい美しさはなくなったが、

生来の美がすっかり落ち着いて品が出た。

昔と変わらぬその愛くるしい頬、澄んだ瞳。

さすがにもう当時の清楚な前髪は無くなり、

額を出してすっかり大人の女性らしい髪型になった。

口紅を差し、アクセサリーをつけた彼女だが、昔の面影はしっかりと残っている。

外見は何も変わらず、当時の女神のままだ。


――左手の薬指に指輪をしていない彼女がここにいる。


どうやら山が同窓会に呼んだ女友達の、さらにその友達として彼女が来たのらしい。

当然私は彼女を知っているが、他の皆は全然知らないだろう。

山も彼女は知らない。彼女は、私はおろか、こちらの誰も知らないだろう。

お互い知らない者同士、しかし全員が同級生同士という集まりになった。

狐につままれた気がする。天狗に化かされた気がする。

あぁ、あの頃は全く近付けなかった彼女。

話し掛けるなんて到底できなかった。

遥か彼方、手の届かない存在だったあの初恋の少女。

時を経て、今こうしてその少女が私の目の前にいる。

これは奇跡か。これは悪夢か。

そんなことが、そんな不可能なことが起こるものなのか。

――あの娘が、あの少女が私の目の前にいる。

これが十数年の時の流れというものか。



正門を出てすぐの駄菓子屋。

ベンチに座って彼女が友達と一緒に缶ジュースを飲んでいる。

その柔かな女神の微笑み、私はすぐに彼女の姿を見つけた。

土曜の午後の部活をさぼって帰る私が、自転車でその脇をすり抜ける。

話し掛けたい。でも、手が届かない。

話し掛けられたい。でも、それも恐い。

どうすればいいのか、分からない。分からなくて、何もしない。


冷静になろうと努めた。昔のではなく今の私に戻ろうと努めた。

頭の中を駆け巡る遠い日の映像から逃げ延びて、目の前の今を見るようにする。

あぁ、当たり前なことを私の頭は思いついている。

当然なこと、しかし私にとってはとても大きな意味を持つことだ。

――私はもう立派な社会人になった。

今の私なら、彼女に言葉をかけることができるのではないか?

今さら彼女とどうこうしたいというわけではない。

ただ、今なら、この今ならば、あの頃叶わなかったことができると思うのだ。

ほんのわずかな会話でいい。今の自分は昔と違うという決定的な証を手に入れられる。

気の弱い私は当時と大差なく今も躊躇の固まりで、

女性に対しての苦手意識が克服できないが、

社会人たる私にはあの頃になかった術がある。

そうだ、会社で覚えた業務的会話という術があるではないか!

今はどんな相手とでも最低限の会話が可能になったのだ。

場はすっかり和んでいる。今なら何を話し掛けても不審には思われない。

いや、逆に話し掛けないほうがおかしいぐらいの打ち解けたムードだ。

自己紹介にかこつけて、彼女に私の存在をアピールしてみることもできるだろう。

何を望むわけではない。

ただ、ここで彼女に私という人間の記憶が少しでも残れば、

当時の私が報われるのではないかと思うのだ。

今を逃せば一生機会はないだろう。

十数年間の空白を言葉に込めて、伝えてみよう。

どうなるか、結果など知ったことではないが、やってみて損なことはない。

いや、是非ともやってみるべきことなのだ。


黙っていた私を置き去りにして、

席では山や高田と彼女たちとの会話が盛り上がりつつあった。

彼女の友達がよくしゃべり、場はさっきよりもずっと明るくなっている。

二〜三人の和ができていて、あちこちでバラバラの会話が交わされている。

さすがに見知らぬ人ばかりの中にいるので、彼女は話を聞いているばかりで、

誰かに話しかけられるのを待っているように見えた。

黙っていていきなり彼女に話しかけては変だろう。

まずは隣の青田と何でもない話をしながら、私は彼女の様子を気にしていた。

そして私は、周囲の会話から彼女が離れた決定的な瞬間を見た。

そのチャンスを逃さず、私は口を開いたのだ。

ついに運命的な一言を発した。当時はただの一回も叶わなかったこと。

憧れや夢というものの、そのまた上をいく神の領域だと思っていたこと。

私が、彼女だけに向けて放つ初めての言葉。

当時の少年から見れば、口から虹を吐くような行動。

重い、重い意味を持つ一片の言葉が放たれる。

世界が変わる。永遠だと思っていたことが音を立てて崩れる。

過去と現在が、ここで交差するのだ。

さぁ、私はこの一言で世界を変えるぞ。

「――白沢さん、」



私は思い出していた。あれは卒業式の日。

結局一言も交わせないままで卒業を迎えたあの日。

彼女は卒業証書が入った筒を手に持ち、友達と楽しそうにしゃべりながら廊下を歩き、

角を曲がって姿を消した。私の前から、永遠に姿を消した。

その廊下の奥には、彼女の後姿を見つめながら立ち尽くす少年がいた。

その時少年は何を思っていたか。もう逢うことはないとはどこかで感じていたが、

目の前の現実を全然受け入れていなかった。

元々が幻、幻はどこまでいっても幻、全ては幻の出来事だと思っていた。

無力だった自分――これに尽きる。

今思うと、当時の私は哀しいぐらい無力だった。

結局何もできず、何もしなかった。

激しい恋愛感情に身を包まれながら何をしていたか。

彼女と話す自分を夢見て、学校で彼女の姿を遠くから探していただけだ。

好きなら好きと伝えればいい。

若い身には何の束縛も無く、伝える行為に何の障害もないのに、私は何もしなかった。

いつかは、と思うだけで全てを運命任せにしていた。

自分が何もせずとも時の流れがいつか必ず二人を結ぶと信じていた気がする。

返す返す、己の馬鹿馬鹿しさ加減にため息が出る。


今はそれが己の若さゆえのことだと思っている。

若さとは、無力さの同義語だ。若いという言葉には無力だという意味が自然と含まれる。

無力という言葉の根底には若いという事実がある。

若さは無力さであり、無力とは若いことだ。

私は本気で辞典にこう付け加えるべきだと思う。

――若さとは無力さの同義語である、と。

若さには経験に裏付けされたノウハウがない。

鋭気があっても実力がない。

残酷ではないか、いくら気を高めようとも具体的なものが伴わないとは。

どこまでも若い心を燃え上がらせた結果、

結局今の自分では何もできないと分かった時の心境はいかなものだ。

そこには自らへの不信、世界への絶望、そういった闇の類のものしか残らないではないか。

若い身空で信じるものを奪われてしまっては先が思いやられる。

危ないことだ、大変に危ないことだ。

若さに達成は与えられないのか。

若いうちは、せいぜい己の無力さに失望しておくぐらいが関の山なのか。

何度も何度も信じるものに裏切られて、ようやく力ある大人への道が開かれるのか。

達成とは年齢を重ねた者にだけ与えられる特権なのか。

意志の強さは関係がなく、経験で決まってしまうものなのか。

――無力だ、無力だ、無力だ!若さとはなんという無力さだ!

その掟に違わず、若き自分とはすなわち無力な自分だった。


私は、彼女のその後姿が最後だと信じることができなかった。

卒業した後も、彼女にもう逢えないということが嘘だと思い込んでいた。

しかし数ヶ月が過ぎ、新しい学校での生活が始まり、

毎日が新しい生活に埋め尽くされた時、初めて私は涙を流した。

その時、ようやく事実を事実と認めることができたのだ。

もう、初恋の少女に逢う機会はない。

私は与えられたチャンスを何もしないままみすみす逃したのだ、と。

それから始まった暗い闇の中で、私は己の無力さを憎んだ。

夢ばかり見て、地に足を着けていなかったことの馬鹿馬鹿しさに自嘲を繰り返した。

自分自身を恨み、自分自身に嘆いた。何度も何度も、自分の愚かさを責めた。

数ヶ月の絶望が続いた。

やがてそこから己を駆り立てたもの、それは皮肉にも己の若さだった。

無力なだけだったはずの若さが、己に意志と力を与えてくれた。

若さには無力という意味の他に、不屈の意志という意味があった。

道を閉ざしたのが若さならば、道を開くのもまた若さであったのだ。

大きな矛盾。

だがそれを不思議がる余裕もなく、私は目まぐるしいスピードで生活を一変させた。

唾棄すべきは己の無力さだ、こんな惨めな思いを二度としてはいけない。

そのために、私は力をつける。

何事にも負けないだけの力をつける。

強くなりたい。もう自分自身を憎むだなんてしたくない。

そのために、強くなろう。そうだ、強くなろう。

強くならねばならない。強く強く、そう心に誓ったのだ。

復讐に近い、歪んだ動機ではあったが、

ただひたすら己の無力さを克服するためにあれから今まで頑張ってきたと思う。

そうして、実際に私は今の幸せな生活を手に入れた。



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