小説「時の流れの恐ろしさ」8話

普通の会話




それから五分後、世界は本当に変わっていた。

たった五分、十数年がたったの五分で大きく変わる。

――そこには、彼女への興味をすっかり失っている私がいたではないか。

あぁ、やるせない時の流れかな。

あの頃の少女は存在せず、

目の前には今やごく普通の大人の女性となった彼女がいた。


「旅行会社といっても、別に海外に行けるわけじゃないですよ〜。

まとまった休みはなかなか取れないし、

お金もないし、みなさんより機会は少ないでしょうね〜」

旅行会社に勤めているという彼女の女友達がそんなことを言っていた。

「そうなんだー。俺も海外とか行く気、全然ないね。

言葉分からないし、日本にいた方が友達はいるし、楽しいんじゃないの?

でも、こいつは何故か結構行ってるみたいだよ」

さっきからここぞとばかりにしゃべりまくっていたお調子者の高田が急に私にふってきた。

あわてて私も言葉をつなぐ。

「フランスはもちろん、ドイツに、スイスに、

台湾・香港・ニュージーランド・カナダ・アメリカ・メキシコ。結構行きましたね〜」

指を折って律儀に数えつつ、おどおどと私は答える。

「へ〜」

みんなしてうらやましそうな、本当はどうでも良さそうな相づちを打っている。

「私、飛行機乗ったことない〜。新幹線ぐらいかな〜。」

と、彼女が言う。


――これだ。飛行機に乗る乗らないはどうでもいいが、

何だろう、彼女から感じるこの普通さは。

美しい羽が生えていたはずの彼女から聞こえてくる言葉、

しかし今やその言葉に私の琴線が弾かれることがないのだ。

あの頃彼女から発せられていた何か、

私を夢中にさせた何かを目の前の彼女に見つけることができないのだ。

「俺も、俺も!別に飛行機なんて乗るモンじゃないよね〜。乗ったことないけどさ〜」

また高田が調子を合わせている。全く、よくしゃべる野郎だ。

少し前に、私は重い重い一言を彼女へと投げかけて、初めての会話を交わした。

いつもの顔で話そうとしても緊張を隠せず、心の中で戸惑うばかりだった。

彼女の顔に、あの頃の少女の面影が残っていたからだ。

特別な人と特別な会話をする、そういうものだと思っていた。しかし、しかしだ!


「――白沢さん、翻訳会社に勤めている転石です。あっ、初めまして、転石です」

最初の言葉はお辞儀をしながらのつまらない自己紹介だった。

みっともないが、彼女とその隣の女友達にも名刺を渡す。

受け取ってくれるなら、捨てる時に最低でもあと一回は

私のことを思い出してくれると思ったからだ。

「へぇ〜。翻訳のお仕事されている方には初めてお目にかかります〜」

それが、彼女が私にかけてくれた、最初の言葉だった。

それから、私はいきなり迷ってしまった。

次の言葉が続かないのだ。何を話せばいいのか、早くも会話が途切れる。

名乗っただけで空白の時間ができてしまった。

「すいませ〜ん、コイツ、フランスかぶれだから日本語下手なんです〜」

いいタイミングで、高田が助け船を出してくれた。

「フランスかぶれ?フランス語の翻訳されているんですか〜?」

女友達のほうがそう尋ねてくる。

「そうです。フランス語で困ったらいつでも言ってください」

「凄いですね〜。勉強されたんですか?」

「いやいや、違うんです。親の仕事の都合で、帰国子女ってやつです」

「――だから、話せるのも当然なんですよ、コイツの場合!」

子供の頃にした私の苦労も知らずに、高田が今度は勝手なことを言い切ってくれた。

「え〜でもね〜立派ですよね〜」

彼女が弱々しい声でそんなフォローをしてくれた。

しかし、私の目にはその行動が哀しく映ってしまったのだ。

なんだろう、彼女の仕種や口調がやけに一般的な女性らしい仕草に見えた。

自分が関わり合っている世界の誰かがはっきり否定されることを

見ていられない女性たちが取るような中途半端な慰め方そのものだと思った。

見ず知らずの私を、あの少女が構ってくれるだなんて、

大変光栄なことではあるが、私はそんな曖昧でつまらない行動を取る

彼女を見たいのではなかった。

「はいはい、分かったよ。じゃぁ、母の日に乾杯!」

「はーい、乾杯!」

横から山が訳の分からない乾杯で割り込んできて、話が飛んだ。

そのまま話題は私のことから離れ、彼女を私個人に注目させられる時間は終わった。


「聞いて下さいよー、美恵子ったら面白い母の日のプレゼントをしているんですよー」

女友達がクスクス笑いながら山に話し始める。

「お母さんを観覧車に乗せてあげたんですって!

それがプレゼントって言うんだから、もうこの娘は……」





「いいの!プレゼントは何がいい、って聞いたら『観覧車に乗りたい!』って言うから、

本人のその希望を叶えてあげんたんじゃない!

昨日の母の日当日にはできなかったから、

午前中に西武遊園地に一緒に行って乗せてあげてきました〜。

素晴らしい親孝行でしょ?みなさんも昨日はちゃんと母の日しましたか〜?」

「いやいや、全然していないねぇ……」

山には少々なじみにくい話題だったようだ。

場を盛り上げるためには茶化すのが一番なのだが、

彼女のその行為は純粋過ぎるので茶化しようがない。

山も言葉に詰まってしまった。

天真爛漫にそんな話をする彼女が嬉しかった。

彼女の優しさと、素敵に歳を重ねてきたということが伝わってくる。

昔この女性に恋をしたことは間違いではなかったと思った。


しかし、私は複雑だった。

人から発せられる空気というものは触れ合った瞬間に大体分かるものだ。

最初の印象とその後の印象でほとんど変わることがない。

私はさっき彼女が席に座り、女友達に口を開いた時からそれを感じ取っていた。

それが何故なのか分からない。

分からないが、とにかく彼女からはごくごく普通の女性の空気しか感じることがないのだ。

普通だという。

あの、特別中の特別中だった少女の空気を私は普通に感じてしまうというのだ。

おかしいと思う、変だと思う。だが、事実は隠せない。

彼女を取り巻く空気が、仕事上で知り合った女性たちから感じる空気と

なんら変わらないものになっているのだ。

高田が自分の仕事のことをペラペラとしゃべり出し、

女友達もそれに合わせてよくしゃべり、毒にもならない会話をみんなで適当に続けた。

彼女も明るくしゃべってくれたし、私と直接話すことも沢山あった。

時間は瞬く間に過ぎていった。


――彼女と話してみて、まず一番に何を感じたか。

何も感じないのだ。何も感じないとは何だ、ごく普通の会話だいうことだ。

あの清らかな女神はどこにいった。本当に彼女本人なのだろうか、

彼女と話してみてあの頃の神々しさをちっとも感じられない。

あの頃は違った。遠くから彼女の姿を見るだけで、少年の心は震えた。

言葉にならない何かが心を大きく揺り動かした。

言葉を交わしたこともない人、しかしそれでもはっきりと感じるものがあった。

何かが、そうだ何かが、あの日の彼女の周りには漂っていた。

そんな彼女に限って、何も感じないだなんてことがあるはずがない。

あの少女に限って、無垢の羽を無くしただなんてことがあるわけがない。

それなのに何なのだ、この私の無感情は!

こんなことがあるのだろうか、十数年間憧れ続けた少女とようやく話す機会が訪れたが、

普通の女性たちと話している感覚と変わらないというのだ。

あぁ、この女性は私にとって特別な人なのだぞ。それが何だ、この普通さは。

こんな不条理なことはない。彼女が変わったのか、それとも私が変わったのか。

十数年の時の流れが、私たちの全てを変えてしまったのか。