小説「時の流れの恐ろしさ」9話

彼女の変化




青田の家に泊めてもらうつもりだったが、

今日中に西葛西へ帰らなくてはいけなくなったから終電で帰るよ、と言って途中で店を出た。

場にいたたまれなくなっていた。

彼女の目も見ず、ただぶっきらぼうにみんなに別れを告げ、逃げるように私は店を出た。

週末の人波でごったがえすサンロードを駅へと歩き、私は天を仰ぐ。


――誰が悪いのではない。しかし、彼女に対する失望が隠せない。

失望――無論、彼女に非があるわけではない。

あの頃の眩しい少女が、今やごく普通の奇麗な女性になる。

十数年前に溢れんばかりの想いを抱いていた女性に、

今やごく普通の大人となった私の心は少しも揺れない。

今夜、彼女に再会するべきではなかった。

そして、未来永劫もう顔を合わすこともない。

現実は残酷に今のあるがままを映し出す。

世の中には知らなくてもいいことがあると言うが、まさにこれのことだろうか。


もう、今夜のことは思い出さないようにしよう。

昔の美しい思い出は美しいまま、今夜のことは一時の悪夢だと思い込もう。

単なる夢物語ならば、過去に傷をつけずに忘れ去ることも可能だろう。

そうだ、忘れてしまおう。忘れてしまえばいい。

忘れてしまうなら、思い出の美しい少女のままだ。

私は現実を拒否し、思い出を一層愛した。

やはり、あの頃は良かった。今ではなく、あの頃が人生のピークだった。

音楽や思想は綿が水を吸い取るように、どんどん頭の中に入っていった。

輝く恋に身を存分に焦がし、あちこちへ飛ぶように走り回っても身体は疲れを知らず、

仲間たちと損得なしの純粋な時間を共有し、

人生の喜びを全身で掴み、全てを美しいと感じた。

人生は、今ではない。あの頃が人生の核だったのだ。


今では、思い出を温めるだけが人生になった。

思い出は辛いこと、哀しいことを全て消し去り、眩い部分だけを映し出す。

私にとっての人生とは、あの頃だけが本質を捉えていて、

残りの人生では残飯を漁るように、

大したものを掴めないまま適当に過ごさなくてはならないのだ。

なんだ現在というのは!つまらない!下らない!

愛した少女はこの世からいなくなり、過去の記憶に封印された。

生活は惰性に囲まれて出口がない。

きらびやかな過去は一瞬たりとも現在には繰り返さない。

老醜はもう始まり、仲間という仲間とは離れ離れになった。

はや三十、しかしまだ何も手に入れていない自分自身は一体何者だ。

間違いなく幸せだが平凡な家庭と、それなりに充実した毎日しか私にはないのか。

馴れ合いの、少し幸福な、結構満たされた檻に私は自ら足を踏み入れてしまっている。

私の残りの人生とは、そんな中で思い出をかじりながら

せせこましく生きるだけのものなのだろうか。

現在とは、決して過去に勝てないものだろうか。


それにしても、時の流れだ。時の流れ――私は本当にこいつを恐ろしいと思う。

今夜、その威力の一端をまじまじと見せ付けられた。

時の流れにかかれば、世界に一人の少女がどこにでもいるような

ありふれた一女性に姿を変えてしまう。

いや、違うか。きっと彼女が原因ではない。

私の方がすっかり変わってしまったのだ。

彼女の美に変化はなく、私の意識にこそ大きな変化が来ていたのだ。

美しいもの、心打たれるものだけに夢中になっていたあの少年は姿を消し、

今ここには平坦な道を行くただの凡人が生き長らえている。

彼女の純粋さがあの日のままでも、

感じる者の頭が変わってしまえば違う世界に見えるはずだ。

そうだ、私がくだらない人間に成り下がってしまったのだ。

時の流れは、全てを変えてしまう。

今ですらこうだ。さらなる十年の後を考えると、恐ろしくて身震いがする。

人生が恐い。先に進みたくない。

しかし、時の流れよ。遠慮せずに全てを変えてみせろ。

オマエにどこまでも流されながら生き抜く人生だということは、私も覚悟している。

好きなだけ変えてしまえばいい。

どうせ変えるなら以前の姿を思い出させないぐらいまで、とことん変えてしまえ!



こんな賑やかな道を一人で歩くものではない。

サンロードの両脇で固って、楽しそうに話をしている二十歳前後の若者たちを見ていると、

私はそれだけでひがみっぽい気持ちになる。

幸せそうに笑い合っている彼らは、きっと自分の人生に何の引け目もないのだろう。

人生は楽しいものだと、胸を張って言うことができるに違いない。

同じ人間である限り、幸せの上限は似たような程度しかないはずなのに、

私は自分を幸せだと思うことができない。

もしかしたらこの私も彼ら同様、幸せだらけに生きているのかもしれないのだ。

あぁ、駄目だ。考えても答えがない。いつも通り結論が出ない。

いらないことまで考えてしまう私自身が全て悪いのだ。


自分自身に迷ってしまったら、煙草が一番だ。

煙に流して、誤魔化してしまえばいい。

このまま電車に乗ってしまったが最後、

西葛西までずっとこんなことを考えるつまらない時間を過ごすことになってしまうだろう。

嫌だ、そんな苦しい時間は嫌だ。

そのまま駅へ歩いて行く気にはなれず、私は脇道に外れ、

缶コーヒーを飲みながら煙草をふかした。ぼんやりとサンロードの人波を見ていた。


本当に、人間とは何なのだろう。

どうして、毎度毎度同じことをするようにプログラミングされているのだろう。

飲み会しかり、恋しかり、この煙草しかり。

同じことを繰り返すことで、心が落ち着くようになっているのは何故なのだろうか。

凸凹の違いだけで、あとは変わらぬ人間たち。

自分は他人と大して変わらない。他人も自分とほとんど同じだ。

それでは、私という独自の人間が生きる意味が何処にある?

いっそ、誰かが私に宣告してくれればいい。

お前は何者でもない、お前は自分が生きる意味を考える必要などはない、と。

そうすれば、気楽な死を迎えられることだろうに。


この一秒の間に、目の前の道を何人という人が通り過ぎる。

一分間もここにいれば、何十人もの人が私の前を通り過ぎる。

しかし、誰一人として私に関わり合いのある人はいない。

たったの一人も、私に目をくれる人はいない。

同じはずの人間が何十人もいて、しかし全員他人同士なのだ。

この事実にいつも私は不思議を感じる。


――ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。

流れに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びていささかもとどまることなし。


方丈記の時代からこんなことが詠まれている。

いや、きっとその前からも同様なのだろう。

そして、この謎を解いた者は未だかつていない。

先人たちが何千年も解けなかったものを、

今さら私ごときが深く考える必要もないのではないか。

私だって子供の頃からずっとこの謎を解こうとしてきたが、

十数年経った今でも全く分からない。

時の流れとは恐ろしいものだ。もう、そう決め付けてしまってもいいだろう。

煙草を挟む指から流れる煙が、私を離れた途端に他人となり、どこかへ消えて行く。

煙草もまた刹那の友であろう。目の前に煙草をかざし、人の群に煙を重ねる。

ほら、同じ存在だ。あぁ、どうしようもない。


空缶入れに缶を投げ込んで、私はまた歩いてみる気になった。

結論なんて出るものではないが、なんとなく考えてなんとなく心が収まった。

人生はこんなものだ、時の流れはこんなものだよ。

さぁ、日常生活に戻ろう。早く家に帰ろう。

そう決めて駅へ向かうためサンロードへ歩き出すと、

これはどうしたことか、見覚えのあるあのシルエットが、

また目の前を通り過ぎたではないか。

急ぎ足で駅の方へと向かう彼女。

さっき永遠の別れを告げたはずのあの初恋の彼女だ。

――奇遇だね。まさかこの道を歩く彼女の姿をまた見るとは思わなかった。

時の流れの皮肉か。時の流れの気まぐれか。

私は思い出す、あの日のサンロードを歩く少女の姿を。





土曜の午後、仲間たちとビリヤードに夢中になってきた帰り道。

脇道からサンロードに入ろうとしていた時、目の前のサンロードを歩く、

制服姿も美しい少女を見つけた。

少年の目には、その少女の周りの空気だけが輝いているのが明らかだった。

少年はやはり遠くから見ているだけで、

少女を現実のものとしては見ることができなかった。



あれから十数年の時が流れた今では、

彼女を取り巻く空気に特別なものを見ることはない。

ただ、良く知った人を街角で見つけたというぐらいにしか、私の心は動かない。

そんな心で終わらせていいものかが分からない。

やはりこのまま終わらせたくは、ない。

もう少しだけこの先を追求したいと思った。

何を望むわけではない。何も期待していない。

ただ、あの日の少女、白沢美恵子という女性が今の自分にとって

どういう意味を持つ人になったのか、

この最後の機会にそれをもう少しだけ知りたいと思ったのだ。

あっという間にその気持ちは膨らみ、私を突き動かす。

また失望しても構わない。もう少しだけ、あと少しだけ――。


幻が歩いて行くから、私も歩いて行く。

手に握り締めた携帯電話をちらちら見ながら、彼女は足を早める。

どうしたのだろう、彼女も終電が近いのだろうか。

そういえば、彼女が今どこに住んでいるのかは知らない。

最も、それは私にとって知らなくてもいい深淵だと思うから知る必要もない。

彼女の歩く足取りの力強さに驚いた。別に急いでいるからではない。

彼女の足が、彼女自身の確かな意志を持って動いていることにびっくりしたのだ。

前回この道で見かけたときはそんなことを全然感じなかった。

流れるように、宙を舞うように見えていた。

しかし、今は違う。彼女は自分の行くべき場所へと自分の意志で向かっている。

当たり前のことだが、私には新鮮だった。彼女も、もう立派な一人の大人になったのだ。

十二年という歳月は彼女にも流れている。

私も彼女も、今はそれぞれの人生がある。

それぞれの帰る場所へと別々に歩いているのだ。


サンロードを通り抜けて、川越駅がすぐそこになった。

そろそろ、彼女と別れの時間が来たようだ。

駅か。人と人との別れにふさわしい場所だ。

ふと、彼女がビルの中に入っていった。ファーストフードの店だ。

閉店の十時ぎりぎりだ、これが急いでいた理由だろうか。

ここで私は西葛西に帰ろう。まさか、店の中まで付いて行くようなことはできない。

ここを最後の場所としよう。

あと一目だけ、外からガラス越しに彼女の姿を一目だけ見て、そして私は行こう。

卒業から十二年、彼女を初めて見てからは十四年も経つのか。

随分と、長い時間だった。


彼女が店に入ってきた。私は遠目に彼女を見つめる。

人気のない店内。それはそうだ、閉店間近で、店員は店じまいを始めている。

彼女はすぐにお目当てを見つけたらしく、入口で立ち止まることなく歩く。

その先には、男性の姿がある。

私の角度からは背中しか見えないが、黒いジャケットの男性がいる。

彼女が、席に近寄る。そして――彼女が、微笑んだ。


――その微笑み。私は時間の狭間を越えた。

その微笑みこそ、私が恋したあの日の少女の微笑みだったのだ。

――衝撃。心に響く鮮烈な衝撃。

さっきの酒席では全く見せなかったその本物の微笑み。

――あぁ、これがこの白沢美恵子という女性の本当の姿だった。

「お待たせ〜」

心からの喜びの表情で彼女の口がそう動いたのを見た。

微笑みは、昔と変わらず、女神のそれだった。

踵を返して、私は駅に向かう。

大人になること。時間を重ねるということ。

本当に、この十数年は、長い、長い時間だった――。



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