小説「優しい肌のように」1話

優しい肌のように




――こんな肌。


触れるたびに驚きがある。

我が子ながら、なんという肌をしているのだろう。

初めての誕生日を迎えたばかりの結衣の、肌の柔らかさ。

どうしてこんなに優しい肌。ムチムチなふくらはぎ。

丸々とした二の腕。赤いほっぺ。

触れた僕の指が、結衣の肌の柔らかさで弾ける。

髪はパウダーの匂い。精密な足の爪。可愛く光るわずかな白い歯。

身体中のパーツが、小さいくせにちゃんとそれらしくなってきている。

君は段々大きくなってきたね。





「慶。ほら、お仕事、お仕事♪」

キッチンで有美が言う。でもだまされないぞ。休日は僕の当番じゃない。

「ほ〜ら、結衣ちゃん。お休みの日はママがゴミ出しするんだよね〜」

結衣の大好きな「たか〜い、たか〜い」をしながら、結衣にそう話しかける。

結衣は声を出さないままで笑っている。あぁ、それ!最高の笑顔!

妻はキッチンの奥で悔しそうに

「ちっ、ダマされなかったか」とか何とかブツブツ言うと、ゴミ箱をガサガサとやり出した。


土曜の朝。結衣が生まれてからこの時間が僕の一番の楽しみになった。

平日は遅く帰ってくるから、結衣の起きている顔にいつも逢えるわけじゃない。

土曜ぐらいは、せめて土曜日ぐらいは思い切り結衣の側でうだうだしていたい。

一緒に寝転がって、一緒に遊んでいたい。

誰にも邪魔されないこの時間。僕の大切な時間。


結衣ちゃん。君の目を見て、ずっとこのままでいたい。

過ぎる時間なんてどうでも良くなってくる。

大事で、大事で結婚したはずの奥さんさえもが霞んでしまうほど、

君の透き通った目は僕を捉えて離さない。

ふたつの玉石をいつまでも見続けられることの喜び。

「もう。子供みたいな目でいつまでも見てないで」

そうキッチンから声がすると、ゴミ袋のガサガサした音は玄関へ遠ざかって行く。

一階のゴミ置き場まで行くのだろう。


さぁ、結衣ちゃん。もう他に誰もいないよ。ここには君と僕だけの時間がある。

君の口から漏れる言葉にならない音を聴きながら、僕は君のことを見ていよう。

そのきれいな目を見ながら、君のこの一秒一分の成長を見守っていよう。

結衣ちゃん。

パパはすっかり大人になって生活でも仕事でも色々難しいことを抱えるようになったけど、

君のことはいつでも、本当にいつまでも好き。

夜泣きも、おむつ交換も、お風呂に入れるのも、それは君のありのままの姿だからパパは好き。

全てをパパに見せてくれる君がとても好きだよ。

いつまでもパパには全てをオープンにしてくれる娘になって欲しい。

でも、それもあと十年と続かないだろうな。


せめて今はずっと君のことを見ていたい。

汚れなく、負い目なく君のことを見ていたい。

パパは心からこの時間が好き。君を見ていると飽きることがない。

ほおっておけばいつまでも、本当にいつまでも君のことを見ているに違いない。

何もしないで見ているだけがどうしてこんなに楽しいのだろう。

自分でも不思議なくらいだよ。


――ドアの閉まる重い音。

ママは変なことを言ったね。

いまさら僕の目が子供のように純粋になれるわけないよ。

子供のようにということは君みたいにということだろう?

それは無理だよ。到底及ばない。

あぁ、でもそう言われてみれば僕のこの目はなんだろう。

いつまでも君を真っ直ぐ見つめることのできる、優しい目。

あぁ、そう言われればどこかで記憶があるような、何か懐かしいような気もしてくる。

あれ、おかしい。思い当たることがあるようだ。


―――――!

眩暈がした。あぁ、あれだ。確かにこの目だ。

そうだ、僕には結衣を見守る今の優しい目と同じ目をしていた時期があった。

まだ二十歳にもなっていなかった頃、初めてできた彼女。

相思相愛だった相手。僕はこの目で彼女のことを見ていた。

優しさだけの目。自分の心がありのままさらけ出された目。

あぁ、あの純粋さは今と同じだ。

僕は狼狽のあまり、どうしていいのか分からず、目を閉じてしまった。

だがそれが悪かった。瞼の裏であの頃の絵が蘇ってくる。





誰もいない山の上の公園で僕たちは抱き合った。

電灯もなかったから、月明かりだけを頼りに

相手の目を見つめ合い、いつまでもキスしていた。

帰り際の車内でも帰るのが惜しくてまた抱き合っていた。

初めて共にするベッドで、僕達は素直になって純粋な目で見詰め合った。

彼女のきれいな目にキスしていた僕。

僕の目は、彼女への真摯な思いに輝いて、偽りの色が全くなかった。

それは、結衣を見つめる今の僕と同じように。


――あの日の目と共通しているのだ。

それに思い当たると、僕は一抹の寂しさを感じてしまう。

あれと同じ目を妻に向けることはなかった。

一度失恋してしまった僕の目には初めての時のような汚れなさはすでに存在せず、

なんだか冷めていたように思う。

こんなこと妻には言えない。だが、どうしてもそう思えてしまう。

妻とは喧嘩もするし、お互いに大人だから生活の上でかけひきをし、

逆にかけひきだってされることもある。

いいや、それはそれで社会人としての立派な成長なのだ。

それを寂しいだなんて思ったことはない。

妻とも、愛し愛されて結婚した仲だ。生活に基づいた深い愛情はある。

だが結婚してからは、最初の頃のようなときめきはなくなってしまった。



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