小説「与一の弓」2話

那須与一 扇の的




与一は海岸線に愛馬・鵜黒の駒を進める。

距離が遠い。まだ40m近くあった。

3月の海水の冷たい時期ではあったが、しばらく馬を海に乗り入れて、距離を縮める。


船までの距離はおよそ30m。

美人は竿の下からやや外れて立ち、変わらず扇を招いて挑発を続けていた。

船は潮風に揺られて右に左に浮き沈みをしていた。

この距離と風ではどんな名人でも的はおろか女に当てるのも難しい。

神業の要求される場面であった。





平氏はどうせ矢は放たないだろうとその若武者を眺めていた。

両軍の前で外そうものなら源氏軍の面汚し。恥は武士の死を意味する。

潮風の中で射る技量もそうだが、それ以上にこの重圧の中で

本当に矢を射る勇気のある武士が源氏の中にいるとは思っていなかった。

前線に出てきたはいいが、結局は構えだけで射ずに引き下がるだろう。

いいや、それが普通だ。そもそもが無理な平氏の挑発であった。


「下野の神々よ!宇都宮大明神、那須の湯泉大明神、日光権現よ!

我が心に、技に、力を貸してくれたまえ!源氏の勝利に!義経殿のために!!」


両軍の将兵が固唾を呑んで見守る中、

与一が静かにそう祈って目を開けるとわずかに風も弱まっている気がした。

今こそ、好機。静寂の中、与一の大声一喝、堂々とこう言ってのけた。


「那須の与一、源氏を代表して矢を放たん!

平氏の方々、恰目してご覧あれ!源氏とはこうであるぞ!」

その声は離れた本陣で手をかざして見つめる義経にも届いていた。

「よし、与一!敵の挑発を砕け!力で平氏めをねじ伏せようぞ!」


与一の指に握られた矢はわずかに一矢。矢筒の中にも他の矢はない。

一矢必中。二矢は持たない。

二矢目があると一矢目に甘えが生じ、迷いが生まれてしまうからだ。

敵味方全ての将兵の視線の中、与一は弓を引き絞った。

「――すべては源氏のためなればこそ!」


放たれた矢の弾道は美人を反れ、強風吹き返す中で扇の根元を見事に打ち抜き、

下からまくしあげられた扇は風に乗って舞い上がり、

ひらりひらりと右に揺れ、左に揺れ、そして金色に輝く波間に落ちていった。


その一瞬の光景の美しさに、誰もが目の前の戦場を忘れて手を打ち、

鐘を鳴らし、歓声を上げて与一を称えた。

源氏だけではない。船中にいた平氏の兵たちも源氏と変わらず、

いや、むしろ源氏以上に与一の技を音で褒め称えていた。

互いに殺し合うべき宿敵同士がこの時ばかりは同じ感情を共有していたのだ。


「これが源氏の誇りだと言うのか!

東国の田舎武者と聞いていたが、見ると聞くとでは全然違う。

あの若武者の秘技はどうだ!我らが平氏の趣溢れる試しに見事応えたではないか。

あなどれぬな、源氏は」

平氏の者たちはそう言って与一の美技に源氏の強い意志を重ねた。





さすがの義経もこの時ばかりは与一を責められなかった。

矢が女を外して扇を捉えた時、一瞬義経の頭に血が上った。

だがその後の紅の扇が宙を舞う様、背景を黄金の光線に飾られて

海面に吸い込まれてゆく様を見て、

あの傲慢だといわれた義経も思わず手を打っていた。

「与一!それがお前という男か!偶然ではあるまい。

与一は最初からこれのために扇を狙っていたのだ。

あなどれぬ男よ!主君の命令を取り違えて、しかし命令以上のことをしてくれたわ!」


そう言う義経の目の奥には笑いがあった。

義経の性格のどこかが確かに変わっていった瞬間であった。


与一の弓矢。

紅に金の日の丸の扇が、意地から意識を創り出し、それを美に変えた。

戦場の美。

血生臭い戦場にも美があった。



「与一の弓」 完



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