小説「与一の弓」1話

与一の弓




「そんな下品なことができるか。戦場にこそ、美が必要だ」

いくら源氏の御大将・義経の命令であろうとも、今の与一には耳に入らない。

この一矢で義経殿の目を覚ましてみせる。その意識に与一は燃えていた。


世の中は一時の清盛公の華の時代が泡のように立ち消えて、

平氏が崩れ、源氏の台頭が加速していた。

源氏に追われ、都落ちを続ける平氏は屋島(四国の高松)に籠もる。





平氏討伐軍の指揮を執るのは源頼朝の弟・源義経。

源氏の猛攻を恐れる平氏は得意の海上戦に持ち込もうと、沖に船を並べ源氏を待ち構える。

ところが源氏の戦は騎馬戦が主流であるから、不利な船上での戦いを避けて海岸に馬を並べる。

両軍は噛み合わない。

激突を回避し、悪態をつく舌戦と弓矢の応酬で日中を過ごしていた。


決着がつかないまま夕暮れが近付き、

今日はこれまでと源氏が海岸から戦線を離し休息を取っていると、

沖合から豪華に飾り立てた船が一艘、海岸に近付いて来て、

渚から50mほどの場所で船を横むけにして止めた。

武装しているような様子はない。


「あれは何か?」

意図が分からず眺める義経の眼前に、船中から華やかに正装した年若い女性が現れた。

都の衣装そのままにまとう美人が血生臭い戦場に現れたことが不似合いで、

源氏の将兵はつい見入ってしまう。

美人は優雅に船板を歩くと扇を取り出し、

手に持っていた竿の先端に付けると船の縁板に竿を立てた。

船に一本の竿が立ち、その先端には真ん中に金の日の丸をあしらった紅の扇がくくりつけてある。

美人は竿の下に立つと、同じ紅に金の日の丸の扇を持ち、源氏軍に向かって扇で手招きを始めた。


――まるで一枚の絵!夕陽落ち行く黄金色の海原を背に、遊覧船と美女。

だいだいの照り返しに目を細めて見ると竿の先の扇が的になり、

美人の誘い扇がそれを鮮やかなものにしていた。

似つかわしくない程、風雅に溢れた光景が源氏の陣前に創られた。





「殿、あれは的を矢で射よという挑発ですが、

殿が正面に出て的と女を眺めているところを狙撃しようという計略と思われます。

挑発には乗らず、無視するのが懸命かと」

義経の側近が真っ先に進言する。


「うむ。それは間違いなかろう。

あんな見え透いた挑発に乗るような義経ではないが、このまま見過ごすというのも赦しがたい。

平氏の者どもに我らが源氏のやり方を見せようぞ。

誰かおらぬか。あの女を射てい!」


側近たちは言葉を疑った。何もそこまでする必要はないだろう。

戦に無関係な民を殺めるのは武士の道に反する。

あの女も平氏に操られているだけで、本当はこの戦に無関係な民であろう。

誰もがそう思うのだが、義経の言葉に背ける者はいない。


「実基よ、そちの配下に弓の名手がいると日頃から言っていたではないか。

急ぎ、その者を呼んでまいれ」



近くにいた後藤実基が声をかけられ、やむなく部下の与一宗高を呼び寄せた。

与一は下野の那須の出身で、空飛ぶ鳥でも三矢射れば

二矢は命中させるという妙技を持つ若武者だった。

与一が実基に連れられて義経の前に進み出ると、容赦ない命令を義経が下す。


「那須の与一と申したか。見事あの女を一矢で討ち取って参れ。情けは無用ぞ。

的に見立てたあの扇ではない。あそこで扇を持って手招きしているあの女だ。

我らが源氏の平氏に対する断固たる態度を見せてやるのだ。よいな」


義経の言葉を聞いて与一は色を失った。

陪臣の身である。主君の主君の命であれば背けるはずがない。

しかし、命令の内容は乱暴過ぎる。

無関係の若い美人を両軍の目の前で射殺せよなど、与一には適わないことであった。





与一は美しいものを美しいと感じることのできる男だった。

平氏が余興半分、挑発半分に船の上の扇を射る技を求めてきているのに、

その興を無視して絵の中の美人を殺せと義経は言っているのだ。

徹底的に平氏を討ち果たそうとする義経の気持ちは分からぬでもない。

だが、これが源氏のやり方なのか。いいや、違う。違うはずだ。


義経の性格は主君の後藤実基から聞いていた。

抜群の武勇と豪胆さを持ち合わせた名将ではあるが、

思慮に欠け、強情過ぎて部下の進言を聞こうとしない。

戦場においては紛れもなく有能な武将ではあるが、

人を統率する将軍としての資質に欠けるところがある。

そこが義経の欠点であり、後日それが故に兄・頼朝から阻害され、しまいには謀殺されてしまう。


「美人を愛さぬ者はおらん。だが、あれは殺せ。

よいか、与一よ。お主の一矢に源氏の意地がかかっている。

そのつもりで射よ。分かったな」


与一に拒否できるはずもない。主君に背く武士はいない。

ましてや主君の主君・源義経の命とあれば。

黙って頷くと、与一は義経の元を後にした。陣に戻ると弓矢を取り、馬に跨る。

海岸線まで下る途中で、思わず与一は心の中で叫んでいた。


「違うだろう、義経殿!

我らが源氏がこの状況下でやるべきことは女に矢を射ることではない。

貴殿のそのやり方では平氏をただ力でねじ伏せるだけだ。

それでは法皇や貴族ども、広く民衆から尊敬される安定政権は作れないのではないか。

違うだろう、義経殿!それは違うだろう!」


同行してきた後藤実基が横から声をかけてくる。


「与一よ、ここはお前の腕の見せ所だと思え。義経殿からの直々のご下命だ。

まさに千載一遇の好機。生涯二度とない機会と思え。

情けをかけるな。思うがままに矢を放て。与一家末代までの手柄になるぞ」


それは分かっていた。

ここで義経の命のままに女を射て、平氏が激高して攻めてこればもうけもの。

この戦は軍兵の多さからして源氏が勝つのは目に見えている。

与一の矢が味方の大捷を誘ったと後世に語り継がれてもおかしくない。

女を射たところで悪く転がる話でもなかった。



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