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小説・小さな月

投稿日:1996年10月1日 更新日:




ある小さな月はその半分を心の傷から、もう半分はその丸い表面を固い岩に覆われていました。

この小さな月も他の月たちと同じく角度によって様々な表情を、感情を持っていました。

ロマンティックなオレンジ色の満月のときにはラブ・ストーリーをうたい、

孤独な半月のときには心の傷に削られた半面をあからさまにさらけだし、

見る者へその心の傷の謎を問いかけ、

消え入りそうな三日月のときには物事の終わり、というものよりその次のまた新たな時代の流れの始まり、

というものをさみしさのなかに細く、強く感じさせていました。

そして視界いっぱいに心の傷を見せつけるときには

誰もがその痛みの深さに目をそらせ、闇までもが同情し、むき出しの傷を夜に黒く包み込んでいました。

心の傷を持たない奴がいた。

彼はこれまでの生涯でそんな痛みを持ったことのない不幸な(あるいは幸福な?)人種であり、

心の傷の存在すらその経験から理解することのおぼつかない、感情に乏しい人間だった。

心の傷から逃げ出した奴がいた。

彼は過去にその許容範囲ギリギリの痛みを背負った経験を有していた。

しかし哀しいかな、彼が取った――あるいは彼に残されていた唯一の術は、

傷の痛みに背を向けもう二度と傷を振り返らない方向であった。

――最も、彼にはまだ充分な時間、そして痛みを強さに導いてくれる、

共に超えてゆける不可欠な存在にめぐり逢っていないだけなのかもしれないのだが。

心の傷を乗り超えた奴がいた。

彼もその許容範囲ギリギリ、というより限界を超えてしまうような哀しい体験を持つ人種であり、

一時心は堕ちつくしたのだがその哀しみを何らかの思想と誰かからの導きにより、

そう、ちょうど心が堕ちつくしたぶんだけ、

元来の素敵な心に新たな「心の宝物」を増やすことができた幸せな人種であった。

――とはいってもその経過には涙も流し尽くすような忍耐と痛みがあったのであり、

幸運というよりは彼の努力の賜物である。

この小さな月に歩いてゆくことは何日にもわたる厳しい環境下の道のりさえ厭わなければ可能でした。

傷を見せない半面はとても素敵に見えましたので何人もの人が

その外見の魅力に入れこんでこの小さな月への徒歩旅行に挑戦したものでした。

しかし、無事にたどりついて戻ってこれた人は過去にわずか数えられる程しかいないとのことでした。

勝手な噂では挑戦すれば大部分は月の表面までは踏めるのですが、その後に行方を絶ってしまうとのことでした。

まずはこの大陸を左右に二分する大山脈を越え、風土の性質を全く異にする他方へ向かいます。

この地方に唯一人間が生活する場所――その昔に自己の全てを迫害により踏みにじられ、

自由の場をこの何者にも知られざる大地に求めて涙の道を歩き移ってきた民族の小さな町があります。

ここまで月に一本しかない長距離バスで約17時間、

到着すればパイプオルガンの自信と尊厳に満ちた、未来の伝説のしらべに歓迎されます。

自分を超え、痛みと哀しみを背負った分だけ許される栄光をこの町の人々は有しています。

その白く気高い町並みは痛みを許せる優しい心――俗界とはとても同じ気持ちで歩けない清潔な、美しい町。

大自然のなかに急に出現する素敵な町――大自然の美とも調和している特有の高潔な美を持つ町

――旅のはじまりはここからです。

この先は世界的に貴重な大自然の財産なので車の乗り入れは決して許されません。

ここからはまず、小さな月へ向かう少数の人間用に作られた細く長い道をMTBで約320㎞ほど走ることになります。

山の深い森と森との間の大草原を風をまとい、太陽を味方につけ駆け抜ければ、どこまでも純粋に、

そして風流だけに生きる野生動物たちにめぐり逢うことができます。

下手に刺激すれば敵となってしまう動物が群れをなして移動していたりもしますが、

つまらない強迫観念に負けて邪心を向けたりする下世話な人間も

この自然の香りを吸いさえすればまずいなくなることでしょう。

山火事に燃え尽くされた森の跡もあります。

朽ちてもそびえる枯れ木たちは未だに捨てられぬ野性の証し――そんなメッセージが読み取れませんか。

ある部分に美しいエメラルド色をした泉が集中して点在していることがあります。

喉の渇きをおぼえた旅人たちのオアシス――には決してならなく、それは有毒の熱水の泉なのです。

湯気を立ててその温泉は震えます。

道から遠く外れた温泉のひとつは定刻になれば忠実に抑えきれない怒りの温水を50mもの高さに吹き上げます

――なんとも恐ろしいまでの情熱ではありませんか。

どこまでも進めば湧き上がる熱水と石灰分の作用で形を成した白い地盤が一面に続きます。

ここからはMTBを乗り捨てて進む必要があります。

階段状になった白いテラスを登り、プラスの情熱そのもののこの大地を進みます。

留意すべきは太陽の位置――すなわち、太陽がその活動を本格的に行っているうちは

この白い地盤にピンク色がかかり、熱水が湧き上がることはありません。

しかし雲にその陽射しを隠されたり、日の出前と日の入り後には

生命反応を無くしたような真っ白な岩盤へと姿を変え、そして湯気と共に熱水が湧き上がり始めます。

当然熱水が湧き上がるときを避けて先へ進まねばなりません。

だがこの白い地盤も相当に長く続きます。

いかに強靭な足腰の持ち主でも歩き抜けようとする間には太陽も沈んでしまい、熱水に足を濡らすこととなるでしょう。

座ることもできず、完全な闇に包まれてもひたすら目標の小さな月の灯りをたよりに足を運びます。

月灯りに映えて白く輝く岩盤もそれは幻想的な美に満ちています。

歩き疲れ、熱水に責め続けられる足はそのうちに感覚を忘れてゆき、

ただひたすら小さな月の灯りに導かれ天空を歩んでいる気持ちになってゆきます。

知らないうちにあの固い地盤を歩き抜け、

足元の熱水はなくなって柔らかな砂の上を歩いているのだと知ったときには

ふと極度の疲労を思い出し、美しい白色はそのままのその新しく優しい大地に身を委ね、

何を考えるわけでもなく深い眠りに誘われ落ちてゆくことでしょう。

……気だるい熱風につかの間の休息を邪魔され、ぼんやり目を開けると白い大地が再び視界に入ってくる。

白い砂漠――むせかえるような暑さだ、振り返ると後ろにも白い砂漠しか見えない。

昨夜残したはずの足跡も風に流されて最早形をとどめてはいない。

世界が変わってしまったかのようだ――。

体力が熱に奪われてゆく。

あの岩盤よりも一層厳しい自然条件、そして、一層素晴らしい外貌。

だがこの美しい白の大地は人を拒む。

とらえどころのないその姿は情熱というより磨き上げられた才能だ――。

喉は燃えるような渇きに襲われ、一滴の水を求めることだけを目標に

上を向く気力もないまま重い足どりで白い砂に足跡を刻み残してゆく。

体力を削り尽くされ、もうこれ以上は進めぬ、と絶望したまさにその瞬間、光は閉ざされた。

……つまり太陽の猛威は雲の陰に封じ込まれた。

限界にたどりつけば再生される。涼風が吹いてきた。

倒れこんでしまった旅人はその穏やかな風に揺られ再び眠りに落ちた。

また何も考えられないまま、潜在意識の世界を好きなだけ楽しみに行った。







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