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小説「白馬風樹」1話

投稿日:2009年8月10日 更新日:




祇園白川を歩いていたら、私はますますダメな男になっていた。

振り返る、また振り返る。

そのぐらいの年齢の女性を見かけると、つい傘の下からでも彼女の面影を探してしまう。

雨なのに、こんなところに今も彼女がいるはずもないのに。

気乗りしない仕事。

重要顧客が祇園白川に引っ越したなんて反則だよ。

思い出深い場所だから、ずっと来なかったのに。

皮肉は突然やってくるという。

それから逃げる術を、私は持つことができないのだろうか。

これも現実の時間、今を生きる私自身だから、またそのままでいいのかな。

桜の花びらが、雨に打たれ、風に飛ばされ、白川に流れていく。

仕事を終えて帰ろうとする私の足を引き止めるのは、

その雨音、その水景、祇園白川で彼女と歩いた思い出。

もうたまらず、私はしばらく瞳を閉じて、遠い記憶に身を任せる。

思えば、愛に動かされていた時間って、なんて幸せだったのだろう。

時間を戻したいと、あの頃に想いを馳せることは多い。

その度に、当時の身の丈に合った拙い行動ぶりに、私は跳ね返される。

合わさっても良かった風と風は、白馬の大樹の根元を別々に吹き流れていった。

もう返らない、あれは、愛に動かされていた時間。


私が大阪の大学生だった頃、長野県白馬村のホテルで、リゾートアルバイトをしていました。

最初は一回だけと思って始めたダイニングのウェイターでしたが、

大阪にはない大自然とリゾートの雰囲気が気に入り、

少しずつ知り合いができていったこともあって、春夏冬の長期連休には毎回、

そのホテルでリゾートバイトを続けるようになりました。

大学3年生の終わりの春休み、そのリゾートバイトの職場で、

私は恵子さんという女性と出逢ったのでした。

彼女は私と同じように大学の長期連休の間にリゾートバイトをしに来ていた、

京都出身で、私より2つ年下の、可愛らしい女の子でした。

その職場には関東からのバイトが多く、関西からは珍しかったこともあり、

同じ言葉を話す者同士として、私はよく彼女とおしゃべりをするようになりました。

すでに私はベテランと呼ばれるぐらい経験者でしたので、

彼女に仕事も教えてあげることも多々ありました。

リゾートとはいっても、周りには自然しかない田舎のことです。

日々の休憩時間や、月にたった1回しかないお休みの日には、

職場の知り合いぐらいしか一緒に遊ぶ人もいないのですが、

私は恵子さんと一緒に駅前を散歩したり、

ゲレンデでスキーをしたりするようになりました。

それはただ単純に他に遊ぶ相手がいなく、することがない、

という理由からであって、そこに恋愛感情など、入る余地もありませんでした。

JR白馬駅前にある「風樹(ふうじゅ)」という小さな喫茶店が私のお気に入りでした。

私の実家は大阪で喫茶店だったことから、

コーヒーの味が分かる男のつもりだったのですが、風樹のコーヒーはとても美味しく、

リゾートバイトで白馬に来る度に何度も訪れたお店だったのです。

その頃の私が自慢できるものといえばコーヒーの味利きぐらいでしたから、

恵子さんを誘って来ることもありました。

風樹には「旅人のノート」という、客で来た旅行者たちが

自由に書き込みできる大学ノートが置かれてあって、

来る度に私は暇にまかせて書き込みをしていました。

さすがに恵子さんと一緒の時は書き込みまではしませんでしたが、

店の棚に収められている古いノートを取り出してきて、

「ほら、これが僕の最初のバイトの時に書いたものだよ」などと、

彼女に見せては楽しいおしゃべりの時間を過ごしたものでした。

春休みは瞬く間に終わり、私は大阪で普通の大学生活に戻りました。

恵子さんとは仲の良い同僚でしたが、お互い住所や電話番号を

交わすほどの仲でもありませんでしたし、携帯電話もない時代のことです、

他の同僚たちと同じようにまたいつか逢えるといいね、と思うだけのことでした。

ただひとつ、最終日が近くなった頃に彼女に話した

「夏もまたここで一緒に仕事ができるといいね」という言葉だけが、唯一のつながりでした。







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