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甄氏と袁熙 三国志小説「夏侯覇仲権」14話

投稿日:2003年3月15日 更新日:




――丁度審配が悪党の死を迎えていた頃、

袁家の大邸宅は徐晃隊により包囲されていた。

ただし、いかなる将兵も屋敷内へは足を踏み入れてはいない。

曹操は鄴城最終攻撃の前に袁家の家族を保護するよう全軍へ厳命を出していた。

そもそも曹操と袁紹は幼馴染であり、政敵となる前は互いに大志を語り合った仲間であった。

旧知の袁一家の命を奪うには忍びない。

また、袁家の家族を保護することで曹操は冀州の民の信頼を掴もうとしていた。

兵が厳重に固める正門に二人の若武者が姿を現した。

曹丕とその護衛を任じられている夏侯覇仲権である。

曹丕を見た兵士たちは互いに顔を見合わせて戸惑っていたが、

曹丕が屋敷に入って行くのを止める者はいなかった。

屋敷内に入ると二人は剣を抜き払った。

いつどんな所から敵が現れても対応できるためにである。

曹丕は十八歳、今回の冀州討伐が初陣であった。

特にこの屋敷に目的があってやってきたのではない。若者の好奇心である。

護衛兵も使用人もことごとく逃げ去っていた。広大な屋敷に人影はない。

鄴城の主であった一族の屋敷とはいえ、

落城した以上ここに曹軍が雪崩れ込んでくるのは明白であった。

ここよりも安全な場所は数多くあり、逆にここに留まるべき理由はない。

ただし、袁一族を除いては。

曹丕は屋敷に残った人に対し自らを名乗り、保護する旨を伝えて回った。

屋敷の家具や装飾品を見て曹丕は思わず唸る。

許都の曹家の物以上に贅を凝らしているのは一目瞭然で、

それはあたかも皇帝の宮殿のような輝きに満ちているのだ。

河北四州という膨大な領土を治めた袁紹の権力の大きさが象徴されていた。

しかし、それも儚い夢物語である。

かつては着飾った袁家の人が多く歩き交わしたであろう長廊下や大庭園も、

今は中身を失ったただの大箱である。

屋敷には敗北した一族の悲哀が付き纏い、ただ空漠な香りが悪戯に漂っていた。

「もろいものだな、名門袁家も。我が曹家の前ではこうなるのも運命か」

「いいえ、若君」

夏侯覇は静かに首を振った。

「うむ?では何だと?」

「結局のところ袁紹は自らの驕りに負けたのです」

それだけ聞くと曹丕は夏侯覇の心中を理解したようだった。

「我が曹軍の数倍に匹敵する兵や領土を有していても、それを動かすのは一人の人間でしかない、か。

覇の考えそうなことだ。それも良かろう」

そう呟いて曹丕は足早に奥へ歩き進める。

そこは屋敷の大奥にあたる部屋であった。入ると部屋の隅で二人の女が身を寄せ合っていた。

一人は服装と年齢からして袁紹の後室劉氏と見て取れた。

もう一人は髪を振り乱し、土まみれの顔の見苦しい女である。

この粗末な服は侍女であろう。曹丕の姿を見ると婦人は両手を掲げた。

自ら両手を縄で縛ってある。無害であることを主張しているのだ。

「我は曹丞相の嫡子曹丕である。劉夫人とお見受けする。

ご安心なされい。害は加えぬように曹丞相が厳命を出されておる」

それを聞くと二人の女は安堵の表情を見せた。

「いかにもわたくしは袁紹の妻です。この通り、抵抗はいたしません」

劉夫人はそう言ってもう一度両手の縄を曹丕に見せた。

「そうか。しかし、そんな卑屈な縄まで我らは望んでおらん。おい、そこの女。解いて差し上げろ」

曹丕にそう言われた女は劉夫人の縄を解こうとする。

しかし、動揺しているのかなかなか解けない。

じれったくなったのか、曹丕が近寄って刀身で縄を切った。

「うん?」

ふと、傍らの女に曹丕は目を留めた。

汚れた顔の中で、美しく光る両の目に気が付いたのだ。

劉氏に目を向けると、劉氏は頷いてこう言った。

「次男袁熙の妻、甄氏です。袁熙はこの屋敷に留めて行きました。

難から逃れさすためにそうするよう私が申し付けました」

曹軍の兵に乱暴されることを恐れてわざと顔に泥を塗ったというのである。

曹丕は己の袖で甄氏の泥を拭ってやった。すると、絹のように白く美しい肌が現れたではないか。

「おぉ」

感嘆の声を上げた曹丕は、夏侯覇に泥を落とすように申し付ける。

夏侯覇は近くの井戸で布を濡らし、甄氏の顔を拭いてやった。

泥を除き、髪を整えると甄氏の美は隠せなくなった。

夏侯覇は己の目を疑った。その雲鬢、その清潔な顔立ち。

あの忘れられない女性とどこか似ている。

いや、あの女性はこんなに美しい顔立ちはしていなかった。

ただ優しく、幸せな表情だった。

十四で目の前からいなくなってしまった女性だから、成長した今はどんな女性になったのだろう。

その女性の今を偲ばせるものが甄氏にはあった。

素顔を見た曹丕は思わず甄氏の手を取り、こう叫んだ。

「――守ってやる!俺が守ってやる!」







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