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夏侯恩 三国志小説「夏侯覇仲権」14話

投稿日:2003年3月15日 更新日:




――その夜、半年に及んだ長期戦の苦難をねぎらうための酒が振舞われた。

将兵という将兵が唄い、踊り、勝利の喜びに酔った。

曹丕の陣営でも陽気な音楽が絶えず、勝利を謳歌する酔いどれ男たちの歓声が飛び交っていた。

しかし、主将の曹丕は姿を現さなかった。

甄氏という佳人を賜った若者には、酒の魅力も色褪せる。

暗い城壁の片隅で、耳を塞ぎながら独りで酒を飲む男がいた。

歓喜に沸く曹操軍で唯一酒を旨いと思っていないのがこの夏侯恩子雲であろう。

その男は敵の大将を捕らえるという第一の手柄を立てたはずなのに。

子雲は何も甄氏に恋をしたというわけではない。

曹丕が甄氏を自分の物にしたことに異論があるわけでもない。

ただ玉思のことを思い出して、やりきれなくなっただけである。

あれから三年、ようやく過去の傷口を癒すことができるようになってきた。

確かに子雲も仲権も、恋の火矢を己から遠い場所に放ち去った。

約束を忘れるためではなく、これからを生きるために不必要な部分を切り捨てようとしたのである。

しかし、二人は知らずとそれを向こうにではなく、己の真上に打ち上げていた。

上空に打ち上げた火矢は長く、美しい線を描き、そして射手の元へと戻ってくる。

火を消す水などどこにもない。打ち上げては戻り、打ち上げてはまた戻るのである。

子雲にとっても、仲権にとっても、玉思のことはいつまでも忘れられない記憶であった。

仲権にだって今は今で別の女性がいる。

その女性たちに玉思の面影を求めるようなこともしていない。

両者はまるで別の生き物で、女という共通項でくくることができない対象であった。

だが不思議と、二人の間で交わされたあの約束は今も確かな意志を含み健在であった。

二人は玉思を守り続けるという約束だけを生かして、

女性に対する理想から玉思の面影を消し去ろうとした。

時が流れ、ようやく別の女性のことを考えられるようになってきたところに、

玉思の成長した姿を思わせる女性が現れ、現れると同時に別の男の物になった。

何のために子雲と仲権の前に現れたというのか。

まるで二人の約束を再認識させるためだけのように、現れては消えていった。

城壁の番所では自ら進んで不眠の番を務めている仲権がいた。

とても酒を飲む気分ではなかった。想いは子雲と同じである。

張飛の山砦を離れてから、一日たりとも玉思のことを忘れた日はない。

玉思を守るのが人生だと言ったことも、今も嘘ではない。

敵の姿を探すべき暗闇に、成長した玉思の姿が甄氏と重なり、浮び上がってくる。

あぁ、忘れられない女性よ。離れても響く永遠の慕情よ。

篝火に照らされて、番所へと向かってくる酔客の姿が見えた。

子雲だ。酷く酔っている。

手に持っていた酒瓶を城下に投げ捨てると仲権に倒れ掛かってきた。

「子雲!それが鄴城攻略第一功労者の姿か?

曹操軍の大捷はお前の手柄なんだぞ!しっかりしろよ!」

不様を見かねた仲権が、子雲を抱え起こして城壁に凭れかからせる。

あぁ、どうして名誉ある手柄を立てた男がこんな悪酔いをしなくてはならないのか。

他の者には分からなくとも、仲権には子雲の気持ちが手に取るように分かった。

そう、仲権自身の気持ちがそのまま子雲の気持ちにつながるからだ。

「……仲権、俺が本当に愛したのは玉思だけだ。

忘れてはいない。約束は忘れてはいないからな……」

項垂れて、か細い声でそう呟く子雲には、いつものような傲慢さや要領の良さは感じられず、

そこにはただ己の心のままに生きる一青年の姿があった。

「……おい、仲権!夢の中の俺の空想力は凄いん、だぞ。

いつも似たような夢を見る。いつも、いっつもだ。

みんなで出かけようと約束するんだ。

お前がいてな、惇兄や淵小父、お前の弟たちに、玉思もだ……。

みんなで笑ってな、俺は楽しみにして、楽しみにして眠る。

でも起きると集合場所が分からないんだ。

俺一人だぞ、お前もいなくて俺一人で集合場所が分からない。

二度と玉思には逢えない。お前もいない。

泣きそうなんだよ、困って困って……そこで目が覚める……」

自嘲のようなつぶやき。昏迷した頭には模糊とした記憶しかないのだろう。

「……昔の記憶の破片が少しずつ集まってな。石を投げてた川原とか、狩りをした山とか……。

場所も人も時代も混じっている。俺の願望そのものだ。

俺はそうしたがっているよ、今も充分幸せなのになぁ……」

どうしたというのだろう。子雲がいつもの子雲ではない。

「玉思に逢えなくなって泣きそうになっている俺は、それが夢だと全然気が付いていないんだ。

また逢いたい、って。逢いたい、って、俺の心がそう思っているんだよ。

……目が覚めてからいつも後悔をする。夢の中の必死の自分に……」

「子雲、子雲。しっかりしろ」

「行軍の馬上で、夜営の闇に……。

戦場でも許都でも夢見るのは玉思のことばかりだぞ。

いつも二度と玉思に逢えなくなる夢を……。

泣きそうなんだぞ。お前にこの哀しさが分かるのか……。

もう二度と逢えないんだなんて嫌だよ。嫌、なんだよ。

でもな、俺は甄氏の顔を見た瞬間に玉思のことを許してしまった。

そう、次に玉思に逢った時、俺はきっと全部許してしまうのだと思う……。

仲権、俺は玉思のことを一生守るぞ。お前がいなくなっても守り続けるぞ……」

力尽きた子雲を仲権は番屋へと運び、横にしてやった。

子雲は泥のように眠りに落ちている。

静かに番屋を離れると、仲権は元の監視位置に立つ。

暗闇を見つめ、微動だにしない男の影。

小さな雫が男の頬を伝った。二つ三つと、それは流れる。

(……僕だってそうだよ、僕だって……)

想いは仲権も同じだった。

――玉思。あぁ、玉思。世に無数の女がいても自分から愛したのは君一人なんだよ。

僕は、僕がどうなっても忘れていない。忘れられない。

子雲の時間は三年前からあまり前進していなかった。

余計な知識だけつけて、幾つかの武功を立てて。

傍目にはきらびやかで、勇ましくても、次第に子雲自身は本心から反れていった。

玉思を思い出しては、当時は確かに存在していた本物の自分自身を思い出す。

だが、その姿が無様に思えて子雲は自分自身を隠した。

仲権にすら見せようとはしなかった。

仲権はようやく子雲の本心に触れることができた気がした。

嬉しい。なんて嬉しいことだろう。

――子雲。みっともないなんて僕は思わないよ。

僕は君を疑っていたぐらいなのだから。

もう玉思のことも約束もみんな忘れて、女たちと遊び呆けているじゃないかって、

僕は君を憎んだ時期もあった。

でも、今は違う。

こうして夜の闇を挟んで君と一緒にいると、君の心がどんどん流れ込んでくるのが分かるんだ。

君は忘れていないんだね。忘れていないんだね!

再び通い合う二人の心。否定の闇の中でようやく小さな光が灯り始めた。

――子雲。僕も一緒なんだよ。あれから、楽しいと思ったことはない。

なんて無様な生き方だろうね、今まで生きてきて、幸せだったのはほんの一瞬だけ。

玉思といたあの一瞬だけが眩しい。

僕は、僕たちは、いつまでこうしていなくてはならないのだろうか。

嬉し涙と哀し涙。誰にも分からないように、仲権は声を出さず泣いた。

兵卒たちの大騒声は仲権の小さな雫の音、

子雲の寝息をかき消して城内を歓喜の色に染めていたのだった。







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