ケンボックス

高品質な小説と写真を。

長坂の戦いの劉備 三国志小説「夏侯覇仲権」15話

投稿日:2003年3月15日 更新日:




荊州の都・襄陽から南へ下ったところに当陽という街がある。

その郊外に景山という小高い山があり、その麓は長坂坡と呼ばれる土地である。

二百年の八月。

劉備軍は南の江陵へと逃げる途中で長坂坡に差し掛かった。

最早荊州は劉備にとって安堵の土地ではなくなっていた。

鄴城を陥落させた曹操は北征を続け袁家一族を根絶やしにした。

後顧の憂いを取り除くと今度は南征軍を編成し荊州を狙いに定めた。

丁度時を同じくして荊州の主・劉表が危篤に陥っていたからである。

曹操軍来襲の知らせを受けた劉表は病床に長男劉琦を呼び寄せた。

しかし、劉表の後妻蔡夫人とその弟で重臣の蔡瑁が邪魔をする。

蔡夫人は自分が腹を痛めて産んだ次男劉琮を後継ぎに立てようと企んでいたのである。

袁紹と同様の泥沼の後継者争いが荊州にも存在していた。

哀れ、劉表は遺言を残せないまま病没してしまう。

号泣して哀しみを繕った蔡夫人と蔡瑁だが、当初の狙い通り劉琮を後継ぎとした。

劉表の遺書を捏造して、諸将が揃っている場で公表したのだ。

国益を考えず、私利私欲だけに走る者を待つのは崩壊でしかない。

蔡姉弟は審配のような確信的な悪党ではない。抜群の才覚を持ち合わせているわけでもない。

曹操軍の侵攻を目前にして内部は揉めに揉めた。

切羽詰った蔡姉弟は思いがけない行動に出た。

荊州劉家として降伏を決定し、降伏状を曹操へと届けたのだ。

嫡子劉琦を立てるのが筋であると主張していた劉備は、

降伏の知らせを受けると驚き、急いで襄陽へ登城した。

しかし、来たのが劉備と知ると城門は開かれない。

以前から蔡姉弟や劉表の旧臣たちは劉備の底力を恐れていたのだ。

見切りをつけて劉備は城を離れる。

東南の江夏に駐屯している劉琦と合流すべく、新野の軍を引き連れ南下した。

この行軍には新野城の民数万人が従っていた。

劉備は新野城の全民に対して退避命令を出した。

別に劉備を慕って付いてきた民ではない。強引に連れてこられたのだ。

劉備はここでも馬鹿正直な大義を前面に出している。

新野の民が曹操軍に虐げられるのを見ていられないので連れてきた、

自分と兵士たちだけで逃げればすぐにも江陵に着くのだが、

自分を慕ってきた民草を捨てるに忍びないのだ、と劉備はそう言ってのけた。

それは真っ赤な嘘である。民草は劉備が握った人質であり、盾であった。

劉備軍の兵はほぼ全員が新野の兵である。

もしも兵士だけで逃げていたら、それこそ途中で兵士の全員が逃亡してしまっただろう。

家族のいる新野を離れてまで劉備に付き従う理由が彼らにはないからだ。

それを防ぐために劉備は兵士の家族たちまで連れて逃げたのである。

民草は兵士たちを逃さないようにするための人質であった。

また、曹操軍の攻撃を緩めるための盾であった。

広大な荊州を支配するためには民衆の心を掴むことが必要である。

新野の民を攻撃すれば、荊州の民衆から非難を受けるだろう。

それを計算した上で劉備は足の遅い民を連れて逃げていた。

曹操軍に追いつかれては地獄。民を切り離して逃げても地獄。

そのぎりぎりの選択で、劉備は己の掲げる馬鹿正直な大義を優先させた。

弱い民衆を保護する善い将軍、という印象を無くしてしまっては

己に何も残らないことを劉備は良く理解していた。

劉備は考えている。これが、英雄の英雄たるしぶとさと信念であった。

長坂坡に差し掛かった時、劉備は遥か後方に立ち上がる土煙を見て曹操軍が迫っていることを知った。

予想よりもだいぶ早い。劉備は大いに慌てた。

追撃があることは想定していたが、今は軍師諸葛亮も関羽も江夏の劉琦へと使いに出ている。

軍兵は少ない上、足手まといとなる民がいる。到底勝ち目はない。

曹操軍の先鋒は曹純と文聘だった。鉄騎兵一万が劉備軍と民衆の中へ突撃した。

逃げ惑う民衆を見た劉備軍の兵士は家族を心配し、隊列を大きく乱す。

殿の張飛が大声を出しても、一旦乱れた隊列が戻ることはない。

あっという間に劉備軍は大混乱に陥った。

劉備は一目散に景山へ逃げようとした。

立ち塞がる曹純軍の兵を必死に斬り崩し、活路を開く。

馬の蹄にかけられた民衆の屍を横目にまっしぐらに逃げ、長坂橋を渡って景山の麓で味方を待った。

曹純・文聘が突入してから間もなく、すぐ後ろに迫っていた曹操本隊も長坂坡に到着した。

前軍は夏侯惇・夏侯淵の両名である。

夏侯惇はこの戦いに特別な意欲を燃やしていた。

それもそのはずである。この六月に喫した大敗の屈辱を忘れるはずがない。







Copyright© ケンボックス , 2020 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.