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糜夫人 三国志小説「夏侯覇仲権」16話

投稿日:2003年3月15日 更新日:




今や長坂坡は阿鼻叫喚の様相を呈していた。

良人や子を失った女の泣き声が大地を支配し、

安否を心配して家族の名を呼ぶ声があちこちで交わされている。

劉備に置いて行かれた民たちには逃げるべき方向すら分からない。

巣穴を襲われた蟻のように右往左往して、どこを目指して逃げるわけでもなく、

地面に転がる屍骸を踏みつけて歩き惑っている。

そんな戦場で夏侯淵は虎髯の将を探していた。

あぁ、宿敵劉備の末弟。

敗れては再生し、また敗れては不死鳥のように蘇る劉備とその一味。

殺さねばならぬ、ここで殺さねばならぬ。曹操のために、曹操と創り上げる国のために。

そして、張飛を斬るならば自分しかいないと夏侯淵は思っていた。

夏侯淵は小義に目がくらんで大義を見失うような将ではない。

彼は将である。それも、一部隊を率いる程度の将ではない。

幾つもの軍を統括する将軍である。私心を出して務まるような職ではない。

幾多の戦場で兵を統率してきた夏侯淵に油断はなかった。

一方で、多少の私心をはさむ余裕も培われていた。

玉思を奪われて以来、事の成り行きを納得してはいたが、

やはり夏侯淵も張飛に復讐を誓っていたのである。

張飛の人格を否定するのではないが、あまりに立場が不安定過ぎる。

劉備軍はいずれ曹操軍に討伐される運命にあるだろう。

降伏すればよいのに、それは叶いそうにない。叶わない限り、玉思に平和はない。

それならばいっそ自分自身の手で葬ってやろうという想いがあった。

名将同士の情でもある。

混乱している張飛軍を駆け回って張飛本人を探すがその姿はない。

夏侯淵は所々に残った張飛の兵陣に包囲しては逃げ惑う残党を討ち続けた。

顔見知りの曹純の配下から、劉備を心配した張飛が

殿から離脱して劉備を追っていった、と聞かされる。

夏侯淵は思わず舌打ちした。

自分の罠の範囲から逃げてしまった以上仕方がない。

すぐに気持ちを切り替えて徹底的に残党狩りをすることにした。

張飛軍を完膚なきまで叩きのめすと、後から来た曹操本隊に合流して長坂橋へと進んだ。

青釭の剣を背に夏侯恩は長坂坡を駆けた。

この戦いは既に曹操軍が勝利している。

あとは劉備の首を挙げられるかどうかだが、それは惇小父と仲権に任せればいい。

――そうだよ、仲権。もう、この戦なんてどうでも良い。

俺たちの目的はそんなことではないだろう。

玉思を一生守り続けること、それが俺たちの人生だぞ。

いいか、間違ってもこんなところで死ぬなよ。

俺はな、仲権。この青釭の剣さえあれば夏侯家の家名を捨てても玉思を守ってみせる。

そういう覚悟があるんだ。夏侯家への裏切りではない。

ただ、お前との約束が人生に優先するだけだ。

誰にも聞こえないその言葉。

一体どこの将が戦場においてそんなことを考えようか。

行き交う雑兵は目に入らない。探しているのは馬車だった。

劉備の二夫人は馬車に乗って移動していたと聞く。

張飛の家族もきっと劉備の二夫人と同乗している。

夏侯恩は目を皿のようにして探し回っていた。

「――酷い混乱ぶりよ。ここでたった一人を探すことなど、黄河に投げ込んだ小石を探すに等しい。

それでも必ずや探して見せるぞ」

そう言う夏侯恩の独り言を聞いた近習の者たちは思わず頷いていた。

ただし、その「たった一人」が意味する相手は、主とは違っていた。

民を脅しては手がかりを聞く。

しかし、敵軍に対して好意的に答える民もなく、頼りにならない情報しか手に入らない。

ふと、曹純配下の淳干導という部将の姿が見えた。

劉備軍の将らしき男を生け捕りにして馬に乗せている。

夏侯恩が近寄り、劉備の家族の行方を知らないかと聞いてみると、

淳干導は近くにある集落のほうを指さして言った。

「わしも探していたのだが、行方が分からん。

劉備の夫人らは馬車を捨てて徒歩で逃げたしいことは聞いておる。

わしはこの敵将糜竺をあの集落近くで生け捕った。あの付近ではないか。わしは劉備を追う」

夏侯恩は集落の家をひとつひとつ周った。

住民は既に逃げ去っており、人気はない。

所々に逃げてきた劉備の民がいて、夏侯恩の姿を見ると大地にひれ伏して命乞いをした。

しばらく探し続け、ある農家の庭に入るとそこには上等な服を着た女性が赤子を抱いていた。

来たのが曹操軍の兵だと分かったらしく、女性は赤子を抱き締めて全身を激しく震わせた。

無理はない。劉備の妻の一人、糜夫人であった。

「御身は、劉備のご夫人か?」

思いがけず優しく聞かれて、糜夫人は少しだけ気を取り戻したようだった。

しかし、何も言わずに赤子を抱き締めた。

「――勘違いされるな。わしは曹操軍の将だが、劉備の子よりも張飛の妻を捜しておる。

御身のことは見逃そう。

張飛の妻はどこにいるのだ?それを教えてくれれば黙ってここを立ち去る」

近習の者はその言葉に驚いた。

しかし、それは夏侯恩一流の策であると信じた。

目的達成のためならばどんな嘘でもつくことができる将であると知っていたからだ。

そのことを逆手にとって夏侯恩は裏の裏の言葉を選んだ。

糜夫人は震える指で東を指差した。

口を開いても震えのあまり言葉にならないらしい。

指差す方向は集落の向こうの深い森の中である。

それを見た夏侯恩はすかさず東に馬首を返す。

内部から疑惑をもたれてはならないことを夏侯恩は知っていた。

糜夫人を欺いたことにはなるが、振り返って近習へ下知する。

「その赤子は劉禅阿斗だ。夫人共々確保せよ」

手がかりを掴んで、夏侯恩の心は張り裂けんばかりに高揚した。

――玉思。俺がもうすぐ行くぞ。

この青釭の剣でお前のことを守ってみせる。どうか、無事でいてくれ!

農家の庭を出ようとしたとき、家の陰から突如人馬の影が夏侯恩の前を遮った。

「夏侯恩であるぞ!何者だ!」

夏侯恩がそう言い終えた瞬間に、男から繰り出された鋭い槍先が夏侯恩の胸を捉えた。

夏侯恩の身体は馬上から吹き飛び、地面に叩きつけられた。

――玉思!玉思よ!俺はここで終わりだ!あぁ、仲権!あとはお前がいてあげてくれ!

薄れゆく意識の中で、子雲はそう叫んでいた。

男は、落馬した敵将が背負っている剣に目を留めた。







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